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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
終章 面影

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2 覚えてる係

 二学期が始まった。


 わたしの席の、斜め後ろ。


 窓際のいちばん後ろの席に、誰も座らなくなった。


 担任が、九月の頭に言った。


「湊は、家庭の事情で転校しました」


 それだけだった。


 教室が、二秒くらいざわついて、それで終わった。


 三人くらいが「え、いつ?」と言った。


 誰も、それ以上は訊かなかった。



 十月になると、誰も湊真白の話をしなくなった。


 十一月になると、クラス替えの話が出はじめた。


 十二月には、あの席に、女子が三人集まって弁当を食べていた。


 窓際は、冬はあったかいらしい。


 わたしは、それを見ていた。


 文句を言う筋合いはなかった。


 言う筋合いはなかったけど、一回だけ、机を蹴った。


 三人にすごく謝られた。わたしが悪いのに。



 ――()()()()()


 悪気があるわけじゃない。


 ただ、毎日は続くし、目の前のことは多いし、いなくなった人の顔は、だんだん解像度が下がる。


 わたしは、それが怖かった。


 わたしが忘れたら、この世界から、湊真白がいなくなる。


 本当に、いなくなる。



 だから、書くことにした。



 九月の終わりに、文房具屋で大学ノートを買った。


 三冊。


 ――三冊にしたのは、あの子が三冊持っていたと聞いたからだ。


 表紙には、何も書かなかった。


 開いて、最初のページに、こう書いた。



 『湊真白のこと』



 そして、思い出せることを、全部書いた。



 『消しゴムを落としたら拾ってくれた。音を立てずに机に置いた。あれが最初』


 『物に謝る。「ごめんね」って小さい声で言う。筆箱に言ってた』


 『廊下の端しか歩かない』


 『走らない』


 『笑うとき、ちょっと遅れて笑う』


 『卵焼き、甘いほうが好き。濃くないって言った』


 『古文、たぶん八十点くらい取る。本人はたぶんって言う』


 『カフェオレ、二週間放置した』


 『浴衣、紺色の金魚。似合ってた。本人は変じゃないかって三回訊いた』


 『下駄、片方なくした』



 書きはじめると、止まらなかった。


 三ヶ月しか一緒にいなかった、というのが、信じられなかった。


 いや――()()()か。


 二年生になってから、ずっと同じクラスだった。


 わたしが五十回近づいて、あの子が四十九回、半歩下がった。


 五十回目に、下がらなかった。



 十一月に、一冊目が終わった。


 二冊目を買った。



 お母さんが、ある日、わたしの部屋に入ってきて、そのノートを見た。


 勝手に読んだ。


 わたしは怒鳴った。


 お母さんは謝らなかった。


 かわりに、こう言った。


「ちーちゃん、あんた、真白ちゃんに何かあった?」


「……なんもないよ」


「なんもなくないでしょ」


「なんもないって」


「じゃあ、なんでノート三冊も」


 わたしは、答えられなかった。



 お母さんは、しばらく黙っていた。


 それから、ノートを閉じて、机に戻した。


「――あのね、ちーちゃん」


「なに」


「あの子ね、うちに来たとき、玄関でずっと立ってたのよ」


「……知ってる」


「靴脱いでいいのか分かんない、みたいな顔でね」


 お母さんは、笑った。


「で、帰るとき、ありがとうございますって、三回言ったの」


「……」


「あんな子、なかなかいないわよ」



 お母さんは、部屋を出ていった。


 出ていく前に、こう言った。


「書きなさい。何冊でも」


「……うるさい」


「うるさいのは、あんたでしょ」



 三冊目を買ったのは、一月だった。



 十二月のある日、わたしは、あることに気づいた。


 夜、布団のなかで、あの子の声を思い出そうとした。


 いつもやっていることだった。


 『似合うと思う』


 『たぶん、です』


 『壊れてるじゃん』


 ――()()()()()()()



 言葉は、覚えている。


 ノートに全部書いてある。


 でも、()()()()()()()()()


 高さも、速さも、語尾の上がりかたも。


 三ヶ月前まで、毎日聞いていたのに。


 わたしは、飛び起きた。


 部屋の電気をつけて、スマホを探した。


 録音が残っていないか。動画が残っていないか。



 一つも、なかった。



 あの子は、写真を撮られるのを嫌がった。


 「顔が変だから」と言って、いつも逃げた。


 いま思えば、たぶん、そういう理由じゃなかった。


 記録に残らないようにしていたのだ。


 三年前に、あらゆるカメラに映らなかった子は、そういう癖がついていたのだと思う。



 わたしは、その夜、二時間くらい、部屋のなかを歩き回った。


 そして、思い出した。


 一枚だけ、ある。


 八月二日の、うちの玄関で。


 お母さんが、勝手に撮った。


 浴衣の着付けが終わったあとに、「記念記念」と言って。


 わたしは、居間に飛び込んで、お母さんのスマホを奪い取った。


「ちょっと、なによ!」


「写真!」


「は?」


()()()()()()!」



 あった。


 一枚だけ。


 紺色の浴衣を着た女の子が、両手を体の横に下ろして、まっすぐ立っていた。


 カメラのほうを見ていた。


 笑っていなかった。


 どう笑えばいいのか分からない、という顔で、口の端だけが、ちょっと上がっていた。


 その隣で、赤い浴衣のわたしが、無理やり肩を組んでいた。



 わたしは、その写真を、その場で三回、自分に転送した。


 プリントもした。二枚。


 一枚は、ノートの一冊目に挟んだ。


 もう一枚は、定期入れに入れた。


 お母さんは、何も言わずに、居間を出ていった。


 出ていってから、台所で、しばらく水を出しっぱなしにしていた。



 ――()()()()()()()()()()


 いまでも、思い出せない。


 わたしが覚えている湊真白は、もう、無音だ。


 それが、この八ヶ月でいちばん、こたえたことだった。



 冬休みのあいだに、わたしは、いくつかの場所へ行った。


 運河沿いの倉庫。


 解体はまだ始まっていなかった。錆びた扉。割れたガラス。油のしみ。


 床に、コップが二つ、並んでいた。


 右のコップに、少しだけ水が入っていた。


 わたしは、それを持ち上げようとして、やめた。


 ――()()()()()()()()()()()()()()


 あの夜、たしかに見えたのに。


 いまはもう、ただのコップだった。



 湾岸のタワーは、外壁がついていた。


 あと半年で完成するらしい。


 仮囲いの外から見上げたけど、ただの高いビルだった。


 あの夜、この上で、鉄骨が星みたいに浮いていた。


 誰も知らない。


 六人の警備員さんも、たぶん、ガス漏れだと思っている。



 それから、駅の反対側の、古いマンション。


 七階建ての、七階。


 エレベーターは直っていた。


 上ってみたら、あの部屋には、表札が出ていた。


 知らない苗字だった。


 子どもの落書きしたシールが、ドアに貼ってあった。


 わたしは、階段を下りた。



 どこにも、いなかった。


 当たり前だった。


 あの人は、もう「あの人」ではないのだ。


 中身が変わってしまった人を、どうやって探せばいいのか、わたしには分からなかった。



 一月の終わりに、一度だけ、土手で黒い服の人を見た。


 夕方だった。


 桜並木の、いちばん端。


 背が高くて、細くて、コートの裾が長かった。


 ――()、と思った。


 思って、走った。


 着いたときには、誰もいなかった。



 わたしは、そこに十分くらい立っていた。


 それから、家に帰って、ノートにこう書いた。



 『一月三十一日 土手 見間違い』



 そのあと、線を引いて、消した。


 そして、書き直した。



 『一月三十一日 土手 ()()()()()()()()()()()

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