2 覚えてる係
二学期が始まった。
わたしの席の、斜め後ろ。
窓際のいちばん後ろの席に、誰も座らなくなった。
担任が、九月の頭に言った。
「湊は、家庭の事情で転校しました」
それだけだった。
教室が、二秒くらいざわついて、それで終わった。
三人くらいが「え、いつ?」と言った。
誰も、それ以上は訊かなかった。
*
十月になると、誰も湊真白の話をしなくなった。
十一月になると、クラス替えの話が出はじめた。
十二月には、あの席に、女子が三人集まって弁当を食べていた。
窓際は、冬はあったかいらしい。
わたしは、それを見ていた。
文句を言う筋合いはなかった。
言う筋合いはなかったけど、一回だけ、机を蹴った。
三人にすごく謝られた。わたしが悪いのに。
*
――人は、忘れる。
悪気があるわけじゃない。
ただ、毎日は続くし、目の前のことは多いし、いなくなった人の顔は、だんだん解像度が下がる。
わたしは、それが怖かった。
わたしが忘れたら、この世界から、湊真白がいなくなる。
本当に、いなくなる。
*
だから、書くことにした。
*
九月の終わりに、文房具屋で大学ノートを買った。
三冊。
――三冊にしたのは、あの子が三冊持っていたと聞いたからだ。
表紙には、何も書かなかった。
開いて、最初のページに、こう書いた。
*
『湊真白のこと』
*
そして、思い出せることを、全部書いた。
*
『消しゴムを落としたら拾ってくれた。音を立てずに机に置いた。あれが最初』
『物に謝る。「ごめんね」って小さい声で言う。筆箱に言ってた』
『廊下の端しか歩かない』
『走らない』
『笑うとき、ちょっと遅れて笑う』
『卵焼き、甘いほうが好き。濃くないって言った』
『古文、たぶん八十点くらい取る。本人はたぶんって言う』
『カフェオレ、二週間放置した』
『浴衣、紺色の金魚。似合ってた。本人は変じゃないかって三回訊いた』
『下駄、片方なくした』
*
書きはじめると、止まらなかった。
三ヶ月しか一緒にいなかった、というのが、信じられなかった。
いや――一年半か。
二年生になってから、ずっと同じクラスだった。
わたしが五十回近づいて、あの子が四十九回、半歩下がった。
五十回目に、下がらなかった。
*
十一月に、一冊目が終わった。
二冊目を買った。
*
お母さんが、ある日、わたしの部屋に入ってきて、そのノートを見た。
勝手に読んだ。
わたしは怒鳴った。
お母さんは謝らなかった。
かわりに、こう言った。
「ちーちゃん、あんた、真白ちゃんに何かあった?」
「……なんもないよ」
「なんもなくないでしょ」
「なんもないって」
「じゃあ、なんでノート三冊も」
わたしは、答えられなかった。
*
お母さんは、しばらく黙っていた。
それから、ノートを閉じて、机に戻した。
「――あのね、ちーちゃん」
「なに」
「あの子ね、うちに来たとき、玄関でずっと立ってたのよ」
「……知ってる」
「靴脱いでいいのか分かんない、みたいな顔でね」
お母さんは、笑った。
「で、帰るとき、ありがとうございますって、三回言ったの」
「……」
「あんな子、なかなかいないわよ」
*
お母さんは、部屋を出ていった。
出ていく前に、こう言った。
「書きなさい。何冊でも」
「……うるさい」
「うるさいのは、あんたでしょ」
*
三冊目を買ったのは、一月だった。
*
十二月のある日、わたしは、あることに気づいた。
夜、布団のなかで、あの子の声を思い出そうとした。
いつもやっていることだった。
『似合うと思う』
『たぶん、です』
『壊れてるじゃん』
――出てこなかった。
*
言葉は、覚えている。
ノートに全部書いてある。
でも、声が、出てこなかった。
高さも、速さも、語尾の上がりかたも。
三ヶ月前まで、毎日聞いていたのに。
わたしは、飛び起きた。
部屋の電気をつけて、スマホを探した。
録音が残っていないか。動画が残っていないか。
*
一つも、なかった。
*
あの子は、写真を撮られるのを嫌がった。
「顔が変だから」と言って、いつも逃げた。
いま思えば、たぶん、そういう理由じゃなかった。
記録に残らないようにしていたのだ。
三年前に、あらゆるカメラに映らなかった子は、そういう癖がついていたのだと思う。
*
わたしは、その夜、二時間くらい、部屋のなかを歩き回った。
そして、思い出した。
一枚だけ、ある。
八月二日の、うちの玄関で。
お母さんが、勝手に撮った。
浴衣の着付けが終わったあとに、「記念記念」と言って。
わたしは、居間に飛び込んで、お母さんのスマホを奪い取った。
「ちょっと、なによ!」
「写真!」
「は?」
「八月の、花火の!」
*
あった。
一枚だけ。
紺色の浴衣を着た女の子が、両手を体の横に下ろして、まっすぐ立っていた。
カメラのほうを見ていた。
笑っていなかった。
どう笑えばいいのか分からない、という顔で、口の端だけが、ちょっと上がっていた。
その隣で、赤い浴衣のわたしが、無理やり肩を組んでいた。
*
わたしは、その写真を、その場で三回、自分に転送した。
プリントもした。二枚。
一枚は、ノートの一冊目に挟んだ。
もう一枚は、定期入れに入れた。
お母さんは、何も言わずに、居間を出ていった。
出ていってから、台所で、しばらく水を出しっぱなしにしていた。
*
――声は、結局、戻らなかった。
いまでも、思い出せない。
わたしが覚えている湊真白は、もう、無音だ。
それが、この八ヶ月でいちばん、こたえたことだった。
*
冬休みのあいだに、わたしは、いくつかの場所へ行った。
運河沿いの倉庫。
解体はまだ始まっていなかった。錆びた扉。割れたガラス。油のしみ。
床に、コップが二つ、並んでいた。
右のコップに、少しだけ水が入っていた。
わたしは、それを持ち上げようとして、やめた。
――重さなんて、わたしには見えない。
あの夜、たしかに見えたのに。
いまはもう、ただのコップだった。
*
湾岸のタワーは、外壁がついていた。
あと半年で完成するらしい。
仮囲いの外から見上げたけど、ただの高いビルだった。
あの夜、この上で、鉄骨が星みたいに浮いていた。
誰も知らない。
六人の警備員さんも、たぶん、ガス漏れだと思っている。
*
それから、駅の反対側の、古いマンション。
七階建ての、七階。
エレベーターは直っていた。
上ってみたら、あの部屋には、表札が出ていた。
知らない苗字だった。
子どもの落書きしたシールが、ドアに貼ってあった。
わたしは、階段を下りた。
*
どこにも、いなかった。
当たり前だった。
あの人は、もう「あの人」ではないのだ。
中身が変わってしまった人を、どうやって探せばいいのか、わたしには分からなかった。
*
一月の終わりに、一度だけ、土手で黒い服の人を見た。
夕方だった。
桜並木の、いちばん端。
背が高くて、細くて、コートの裾が長かった。
――あ、と思った。
思って、走った。
着いたときには、誰もいなかった。
*
わたしは、そこに十分くらい立っていた。
それから、家に帰って、ノートにこう書いた。
*
『一月三十一日 土手 見間違い』
*
そのあと、線を引いて、消した。
そして、書き直した。
*
『一月三十一日 土手 たぶん見間違いじゃない』




