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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
終章 面影

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1 見送らなかった朝

「ちーちゃん、起きてる?」


 お母さんの声で、わたしは目を覚ました。


 八月八日の、朝の八時だった。


 窓の外で、蝉がうるさかった。


 部屋のなかは、扇風機が首を振っていて、畳が汗でぬるかった。


 ――()()()()()()()()


 起きた瞬間に、わたしはそう思った。



 わたし、津久見千早は、その日、見送りに行かないと決めていた。


 自分で決めた。


 行ったら絶対に引き止めるし、引き止めたら、あの子が困るからだ。


 ――それなのに、朝の四時に目が覚めて、気づいたら土手の上に立っていた。


 馬鹿なことをした、と思う。


 行かないと言っておいて、中途半端に、いちばん近い場所まで行った。


 埠頭までは、行けなかった。


 行く勇気がなかった。



 土手の上は、まだ暗かった。


 川の音がしていた。


 前の晩に浮かべてもらった涙は、もうどこにもなかった。


 わたしは、桜の木にもたれて、東のほうを見ていた。


 湾岸のほうだ。


 空が、だんだん白くなっていった。



 四時五十二分に、太陽が出た。


 スマホで確認したから、時間は正確だ。


 わたしは、その光を見ていた。


 何かが起きるかと思っていた。


 空が鳴るとか、光が走るとか、そういうことが。



 何も、起きなかった。



 蝉が鳴きはじめた。


 新聞配達のバイクが、土手下の道を走っていった。


 犬の散歩の人が、わたしを見て、会釈をした。


 わたしも、会釈を返した。


 ――()()()()()()()()()


 人が一人いなくなる朝も、蝉は鳴くし、新聞は配られるし、犬は散歩に行く。


 わたしは、そこで、しゃがみこんだ。


 そして、朝の六時まで、そこにいた。



 家に帰って、そのまま寝た。


 起きたら八時だった。


 お母さんが、麦茶を持ってきてくれた。


「あんた、朝どっか行ってた?」


「散歩」


「散歩?」


「うん」


「あっついのに」


「うん」


 お母さんは、それ以上訊かなかった。


 この人は、うるさいけど、訊かないときは訊かない。


 わたしは、麦茶を飲んで、また横になった。



 八月九日。


 わたしは、若葉園に行った。


 行っても意味がないのは分かっていた。


 それでも、行かないと確かめられなかった。



 坂の途中の、白い二階建て。


 壁に蔦が這っていた。


 玄関に、風鈴が吊るしてあった。


 インターホンを押すと、太った中年の女の人が出てきた。


 この人が佐伯さんだと、すぐに分かった。


 ましろの話しかたで、何度も聞いていたからだ。



「あの、津久見と言います。湊さんの、同級生で」


「ああ!」


 佐伯さんは、ぱん、と手を叩いた。


 声が、ものすごく大きかった。


「ちーちゃん!」


「……え」


「あんた、ちーちゃんでしょ。話は聞いてるわよ。唐揚げの」


「唐揚げ」


「タッパーの子」


 わたしは、なんて答えていいか分からなかった。



 ましろの部屋は、一階のいちばん端だった。


 佐伯さんが、開けてくれた。


 六畳の、狭い部屋だった。


 ベッドと、机と、押し入れ。


 それだけだった。


 ベッドにはシーツが掛かっていなくて、マットレスが剥き出しになっていた。


 机の上には、何もなかった。


 押し入れを開けたら、空だった。



「昨日の朝ね、早くに出てったのよ」


 佐伯さんが、うしろで言った。


「四時よ、四時。あたし、起きてたんだけどね」


「……はい」


「玄関で、靴履いてて。荷物なんか、リュック一つよ」


「――」


「行ってきますって、ちゃんと言ったわ」


 佐伯さんは、部屋の真ん中に立って、空っぽの机を見ていた。


「あたしは、行ってらっしゃいって言った。それだけ」



 わたしは、自分の呼吸が浅くなっているのが分かった。


「――()()()()()()()()()()


「遠い親戚のとこよ。書類も見たの。ちゃんとしてた」


「連絡先は」


「あるわよ」


 佐伯さんは、封筒を出してきた。


 住所と、電話番号が書いてあった。


 わたしは、その場でかけた。


 ――「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」


 三回かけた。


 三回とも、同じだった。



 わたしは、スマホを下ろした。


 佐伯さんは、わたしを見ていた。


 しばらく見て、それから、ため息をついた。


「……やっぱりね」


「え」


「あたしね、二十八年この仕事やってんの」


 彼女は、空っぽの押し入れを閉めた。


「子どもが嘘つくときの顔なんて、何千回も見てんのよ」



「あの子、嘘ついてたんですか」


 わたしが訊くと、佐伯さんは、少し笑った。


 笑ったけど、目は笑っていなかった。


「ついてたわね」


「――」


「でもね、ちーちゃん」


 彼女は、廊下のほうを向いた。


「あたしはね、嘘をつかせるほうが悪いと思ってるの」


「……」


「あの子に嘘つかせたのは、誰なんだろうねえ」


 わたしは、答えられなかった。


 たぶん、それは、世界だと思った。



 帰りぎわ、廊下の奥から、小さい子が走ってきた。


 五歳くらいの女の子だった。


 わたしの脚にぶつかって、それから、見上げた。


「――ましろねえ?」


 心臓が、止まりかけた。


「ちがうか」


 その子は、あっさりそう言って、走っていった。


 わたしは、玄関でしゃがみこんだ。


 佐伯さんが、何も言わずに、背中をさすってくれた。

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