1 見送らなかった朝
「ちーちゃん、起きてる?」
お母さんの声で、わたしは目を覚ました。
八月八日の、朝の八時だった。
窓の外で、蝉がうるさかった。
部屋のなかは、扇風機が首を振っていて、畳が汗でぬるかった。
――間に合わなかった。
起きた瞬間に、わたしはそう思った。
*
わたし、津久見千早は、その日、見送りに行かないと決めていた。
自分で決めた。
行ったら絶対に引き止めるし、引き止めたら、あの子が困るからだ。
――それなのに、朝の四時に目が覚めて、気づいたら土手の上に立っていた。
馬鹿なことをした、と思う。
行かないと言っておいて、中途半端に、いちばん近い場所まで行った。
埠頭までは、行けなかった。
行く勇気がなかった。
*
土手の上は、まだ暗かった。
川の音がしていた。
前の晩に浮かべてもらった涙は、もうどこにもなかった。
わたしは、桜の木にもたれて、東のほうを見ていた。
湾岸のほうだ。
空が、だんだん白くなっていった。
*
四時五十二分に、太陽が出た。
スマホで確認したから、時間は正確だ。
わたしは、その光を見ていた。
何かが起きるかと思っていた。
空が鳴るとか、光が走るとか、そういうことが。
*
何も、起きなかった。
*
蝉が鳴きはじめた。
新聞配達のバイクが、土手下の道を走っていった。
犬の散歩の人が、わたしを見て、会釈をした。
わたしも、会釈を返した。
――そういうものだった。
人が一人いなくなる朝も、蝉は鳴くし、新聞は配られるし、犬は散歩に行く。
わたしは、そこで、しゃがみこんだ。
そして、朝の六時まで、そこにいた。
*
家に帰って、そのまま寝た。
起きたら八時だった。
お母さんが、麦茶を持ってきてくれた。
「あんた、朝どっか行ってた?」
「散歩」
「散歩?」
「うん」
「あっついのに」
「うん」
お母さんは、それ以上訊かなかった。
この人は、うるさいけど、訊かないときは訊かない。
わたしは、麦茶を飲んで、また横になった。
*
八月九日。
わたしは、若葉園に行った。
行っても意味がないのは分かっていた。
それでも、行かないと確かめられなかった。
*
坂の途中の、白い二階建て。
壁に蔦が這っていた。
玄関に、風鈴が吊るしてあった。
インターホンを押すと、太った中年の女の人が出てきた。
この人が佐伯さんだと、すぐに分かった。
ましろの話しかたで、何度も聞いていたからだ。
*
「あの、津久見と言います。湊さんの、同級生で」
「ああ!」
佐伯さんは、ぱん、と手を叩いた。
声が、ものすごく大きかった。
「ちーちゃん!」
「……え」
「あんた、ちーちゃんでしょ。話は聞いてるわよ。唐揚げの」
「唐揚げ」
「タッパーの子」
わたしは、なんて答えていいか分からなかった。
*
ましろの部屋は、一階のいちばん端だった。
佐伯さんが、開けてくれた。
六畳の、狭い部屋だった。
ベッドと、机と、押し入れ。
それだけだった。
ベッドにはシーツが掛かっていなくて、マットレスが剥き出しになっていた。
机の上には、何もなかった。
押し入れを開けたら、空だった。
*
「昨日の朝ね、早くに出てったのよ」
佐伯さんが、うしろで言った。
「四時よ、四時。あたし、起きてたんだけどね」
「……はい」
「玄関で、靴履いてて。荷物なんか、リュック一つよ」
「――」
「行ってきますって、ちゃんと言ったわ」
佐伯さんは、部屋の真ん中に立って、空っぽの机を見ていた。
「あたしは、行ってらっしゃいって言った。それだけ」
*
わたしは、自分の呼吸が浅くなっているのが分かった。
「――どこに行ったんですか」
「遠い親戚のとこよ。書類も見たの。ちゃんとしてた」
「連絡先は」
「あるわよ」
佐伯さんは、封筒を出してきた。
住所と、電話番号が書いてあった。
わたしは、その場でかけた。
――「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
三回かけた。
三回とも、同じだった。
*
わたしは、スマホを下ろした。
佐伯さんは、わたしを見ていた。
しばらく見て、それから、ため息をついた。
「……やっぱりね」
「え」
「あたしね、二十八年この仕事やってんの」
彼女は、空っぽの押し入れを閉めた。
「子どもが嘘つくときの顔なんて、何千回も見てんのよ」
*
「あの子、嘘ついてたんですか」
わたしが訊くと、佐伯さんは、少し笑った。
笑ったけど、目は笑っていなかった。
「ついてたわね」
「――」
「でもね、ちーちゃん」
彼女は、廊下のほうを向いた。
「あたしはね、嘘をつかせるほうが悪いと思ってるの」
「……」
「あの子に嘘つかせたのは、誰なんだろうねえ」
わたしは、答えられなかった。
たぶん、それは、世界だと思った。
*
帰りぎわ、廊下の奥から、小さい子が走ってきた。
五歳くらいの女の子だった。
わたしの脚にぶつかって、それから、見上げた。
「――ましろねえ?」
心臓が、止まりかけた。
「ちがうか」
その子は、あっさりそう言って、走っていった。
わたしは、玄関でしゃがみこんだ。
佐伯さんが、何も言わずに、背中をさすってくれた。




