7 ――そして、私は
その最後の一音を、私がうたった。
*
自分の喉から、その音が出た瞬間、私は、崩れ落ちた。
膝が、コンクリートを打った。
痛かった。
痛みがあることに、驚いた。
三年ぶりに、私は、地面に膝をついていた。
*
右腕が、戻っていた。
左腕も。
髪が、重さを取り戻して、肩から前に落ちた。
朝日が、まぶしかった。
まぶしいと思う感覚が、私にはもう、ずいぶん長いこと無かった。
*
力が、戻ってきていた。
三年前に切り出したものが、体の真ん中の、あの穴に、静かに収まっていく。
穴が、塞がっていく。
――ああ、これで死なない。
私は、そう思った。
思って、それから、気づいた。
*
流れ込んできたのは、力だけではなかった。
*
最初に来たのは、匂いだった。
揚げ物の匂い。
狭い玄関。テレビの音。「いらっしゃーい」と叫ぶ声。
六畳の部屋。地層になった本と服。
――私は、その家に行ったことがない。
*
次に、感触。
肩に預けられた、十四キロ。
小さい子の、汗ばんだ髪。
寝息。
――私は、その子を抱いたことがない。
*
次に、味。
甘ったるい、ぬるくなったカフェオレ。
二週間放置された缶の味。
それを、半分だけ残して差し出してくる、誰かの手。
*
次に、音。
ぱん、と手を叩いて笑う、大きな声。
『行ってきます、でしょ』
*
次に――
*
私は、両手で顔を覆った。
覆って、そこで、初めて、自分が泣いていることに気づいた。
*
痛い。
胸が、痛い。
力が戻ったせいではない。
穴が塞がったせいでもない。
入ってきたものが、痛いのだ。
人の温度が。
人に触れられた記憶が。
誰かに「ありがとう」と言われたことが。
――全部、痛い。
*
私は、その痛みを、知っていた。
*
三年前の、あの夜。
私は、ずぶ濡れで、剪定会の扉を叩いた。
傘も差さずに。
何があったのかは、一言も言わなかった。
言えるわけがなかった。
*
――すず。
妹の名前だ。
七歳だった。
私は、その子に、あの歌をうたって寝かしつけていた。
毎晩。
三拍子の、短い歌。最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。
私たちの母が、私にうたった歌だった。
*
その子が、階段から落ちた。
私の目の前で。
二階の、たった十二段。
――私は、手を伸ばした。
助けようとした。
当たり前のことだった。
妹が落ちたら、手を伸ばす。
考える前に、体が動いた。
*
その手が、触れた。
そして、すずは、死んだ。
*
私の手が、そうしたのだ。
落ちたからではない。十二段で、人は死なない。
私が触れたから、死んだ。
*
剪定会の人間は、私にこう訊いた。
「全部とは?」
異能というのは、どこまでが異能で、どこからが本人なのか、はっきりしないことがある。木の枝と幹の境目みたいなもので。
だから、確認したのだ。
どこまで切るのか、と。
*
私は、自分の胸を指さして、言った。
*
――これも、一緒に。
*
力だけを切っても、意味がなかった。
力があったから、すずが死んだのではない。
私が手を伸ばしたから、すずは死んだ。
優しくなければ、手は伸びなかった。
伸ばさなければ、あの子は、十二段落ちて、泣いて、それで終わっていた。
*
だから、私は、両方を切ってくれと言った。
人を潰す力と。
――人に手を伸ばしてしまう、この性質を。
*
そして、三年間。
私は、何も持たない部屋で、床に毛布一枚で眠った。
物は重いから。持っていると、疲れるから。
誰にも触れなかった。
誰にも頼まなかった。
礼の言いかたを忘れた。
一年前にあの子を見つけても、手を出さなかった。
手の出しかたを、切り取ってあったから。
*
私は、埠頭に膝をついたまま、泣いていた。
声が出た。
自分の声じゃないみたいな、ひどい声だった。
カモメが、驚いて飛び立った。
*
三年前、私は、忌まわしいものを切り捨てたつもりでいた。
違った。
切り出されて、箱に入れられて、値をつけられて、売られるはずだったものは。
保管庫の扉を開けて、自分の足で歩いて出ていった、それは。
*
私の、いちばんいいところだった。
*
それは、三年間、東京のどこかで、児童養護施設の一階の端の部屋で暮らしていた。
物に謝りながら。
廊下の端を歩きながら。
泣いている子の隣に座りながら。
知りもしない誰かの卵を、割らないように受け止めながら。
*
そして昨日の夜、泣いている友達の涙を、空へ浮かべた。
*
――私には、絶対にできなかったことだ。
*
どれくらい泣いていたのか、分からない。
気づくと、太陽は、水平線からすっかり離れていた。
海が、青くなっていた。
私は、袖で顔を拭った。
右腕の袖で。
三年ぶりの、右腕で。
*
立ち上がった。
足が、ちゃんと地面を踏んでいた。
体重が、五十三キロあった。
重かった。
こんなに重いものを、人間はみんな、毎日持って歩いているのか、と思った。
*
口のなかに、まだ、いちごの味が残っていた。
*
私は、海を見た。
それから、東京のほうを見た。
ビルが並んでいた。
その全部が、二十四グラムずつ重かった。
誰も気づいていない。
*
歩き出そうとして、足が止まった。
――私は、鼻歌をうたっていた。
三拍子の、短い歌。
最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。
*
私は、口を押さえた。
そして、しばらく、動けなかった。
*
うたっているのが、誰なのか、分からなかったからだ。




