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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第七章 この姿で逢うのは最後

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6 埠頭

 八月八日、午前四時二十分。


 東京湾の埠頭に着いた。


 三年前、わたしが「見つかった」場所。


 ――()()()()()()()()場所。



 コンテナヤードの外れ。


 錆びた係船柱と、剥がれかけた白線と、フェンス。


 水面は、まだ真っ黒だった。


 空の東のふちだけが、うっすらと藍色になっていた。


 風が、少し冷たかった。


 八月なのに。



 夜鷹さんは、先に来ていた。


 フェンスのそばに立って、海を見ていた。


 黒いコート。


 右腕は、もう無い。


 左腕も、肘から先が靄になっていた。


 髪が、肩に落ちていた。


 三グラムぶんの重さで、彼女は、ちゃんと地面に立っていた。


「――早いわね」


「はい」


「四十分も」


「……緊張して」


「そう」



 わたしは、その隣に立った。


 二人で、しばらく海を見ていた。


 遠くで、貨物船の汽笛が鳴った。


 カモメが、水面すれすれを飛んでいった。



「痛くないって、言いましたよね」


「言ったわ」


「本当ですか」


「――たぶん」


「たぶん」


「やったことがないもの」


 わたしは、笑った。


「わたしもです」



「一つ、いいですか」


「なに」


「名前」


 夜鷹さんの肩が、動いた。


「二回、訊きました。六月に、二回。教えてもらえませんでした」


「……ええ」


「三回目です」



 彼女は、長いこと黙っていた。


 海の色が、少しずつ変わっていった。


 黒から、濃い青へ。



「――灯里」


 やがて、その人は言った。


「え」


()()。灯りの、灯に、里」


「あかり、さん」


「そう」


 彼女は、そっぽを向いた。


「……変な名前でしょう」


「いえ」


 わたしは、首を振った。


「いい名前です」



 三年前、わたしは、あの白い部屋から出て、歩いた。


 どこへ行こうと思ったのかは、覚えていない。


 鳴海さんに訊かれたとき、わたしはこう答えた。


 ――海のほうに、光が見えたので。


 ――明るいほうへ、歩いただけだと思います。


 (……そういうことか)


 わたしは、そのとき、なんとなく分かった気がした。



 空が、白みはじめた。


 水平線のあたりに、オレンジ色の線が入った。


 あと、十分くらいだった。



 わたしは、ポケットから、赤い包み紙を出した。


 いちごのキャンディ。


 三グラム。


 ひなたが、あの人にあげたやつ。


 あの人が、捨てかたが分からなかったやつ。


 わたしのポケットに、五日間、入っていたやつ。


「これ」


「……ああ」


「捨てかた、教えます」



 わたしは、包み紙を剥いた。


 左手だけでやったので、少し手間取った。


 赤い玉が、朝の光のなかで、つやつやと光った。


「口、開けてください」


「――は?」


「開けて」


「なにを」


()()()()



 夜鷹さんは、ものすごく嫌そうな顔をして、口を開けた。


 わたしは、そこにキャンディを入れた。


 彼女は、それを口に含んだまま、固まっていた。


「……甘い」


「そうでしょうね」


「甘すぎるわ」


「四歳児の趣味なので」



 夜鷹さんは、しばらく、キャンディを舐めていた。


 三年ぶりの砂糖だったのかもしれない。


 その顔が、だんだん、変になっていった。


 口の端が下がって、眉が寄って、目が潤んで。


 ――泣きかたを知らない人の顔だった。


「……ずるいわ」


「え」


()()()()()()


「三グラムですよ」


「知ってる」


 彼女は、そっぽを向いた。


「知ってるわよ」



 水平線が、燃えはじめた。



「――行きます」


 わたしは言った。


「……ええ」


「触ればいいんですか」


「ええ。抵抗しなければ、一瞬」


「抵抗しません」


「――そう」



 わたしは、左手を伸ばした。


 夜鷹さんの、胸のあたりに。


 三日前、この人が指さした場所。


 『それは私のものよ』


 『あなたは、私の一部よ』


 わたしは、そこに、手を当てた。



 あたたかかった。


 この人の体が、あたたかいことを、わたしはそのとき初めて知った。



「夜鷹さん」


「――灯里よ」


「灯里さん」


「なに」


 わたしは、息を吸った。


()()()()()()()()()



 彼女の顔が、歪んだ。


「わたしを、じゃないです。もう、そういう話じゃない」


「――」


「これから入ってくるもの、たぶん、あなたが三年前に捨てたやつです」


 わたしは、言った。


「今度は、()()()()()()()()



 夜鷹さんは、答えなかった。


 答えるかわりに、残った左手を、わたしの背中に回した。


 抱きしめる、というには、ぎこちなさすぎる動きだった。


 やりかたを知らない人の動きだった。


 それでも、腕は、ちゃんとわたしの背中に回った。



 太陽が、出た。



 東京湾の水平線から、光が、まっすぐに走ってきた。


 埠頭のコンクリートが、オレンジに染まった。


 わたしの浴衣――ではなく、着古したTシャツの袖が、光った。


 わたしは、目を閉じた。


 そして、うたった。



 ゆっくりした、三拍子の、短い旋律。


 最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。


 わたしがうたえる、たった一つの歌。


 三年前の最初の晩から、ずっとうたってきた歌。


 ()()()()()()()()()()()歌。



 夜鷹さんの体が、びくりと震えた。


 腕に、力がこもった。


 わたしは、うたい続けた。



 ――()()()()()()()()()()()()


 痛くはなかった。


 手のひらの輪郭が、先に無くなった。


 次に、腕。


 重さの感覚のない右腕は、いちばん先に消えた。


 (――ああ、そっか)


 (切られたところから、無くなるんだ)



 わたしは、最後に、思った。


 (ひなた、ごめんね)


 (佐伯さん、ありがとうございました)


 (田辺さん、ほんとに、ごめんなさい)


 (柏木さん、就職、がんばって)


 (千早)



 (()())



 (……ありがとう)



 歌の、最後の一小節。


 ふしぎな下がりかたをする、あの部分。


 そこまでうたって、わたしの声は、途中で無くなった。


 最後の音だけ、出せなかった。



 ――そして、わたしは、そこで終わった。

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