6 埠頭
八月八日、午前四時二十分。
東京湾の埠頭に着いた。
三年前、わたしが「見つかった」場所。
――わたしが、出てきた場所。
*
コンテナヤードの外れ。
錆びた係船柱と、剥がれかけた白線と、フェンス。
水面は、まだ真っ黒だった。
空の東のふちだけが、うっすらと藍色になっていた。
風が、少し冷たかった。
八月なのに。
*
夜鷹さんは、先に来ていた。
フェンスのそばに立って、海を見ていた。
黒いコート。
右腕は、もう無い。
左腕も、肘から先が靄になっていた。
髪が、肩に落ちていた。
三グラムぶんの重さで、彼女は、ちゃんと地面に立っていた。
「――早いわね」
「はい」
「四十分も」
「……緊張して」
「そう」
*
わたしは、その隣に立った。
二人で、しばらく海を見ていた。
遠くで、貨物船の汽笛が鳴った。
カモメが、水面すれすれを飛んでいった。
*
「痛くないって、言いましたよね」
「言ったわ」
「本当ですか」
「――たぶん」
「たぶん」
「やったことがないもの」
わたしは、笑った。
「わたしもです」
*
「一つ、いいですか」
「なに」
「名前」
夜鷹さんの肩が、動いた。
「二回、訊きました。六月に、二回。教えてもらえませんでした」
「……ええ」
「三回目です」
*
彼女は、長いこと黙っていた。
海の色が、少しずつ変わっていった。
黒から、濃い青へ。
*
「――灯里」
やがて、その人は言った。
「え」
「灯里。灯りの、灯に、里」
「あかり、さん」
「そう」
彼女は、そっぽを向いた。
「……変な名前でしょう」
「いえ」
わたしは、首を振った。
「いい名前です」
*
三年前、わたしは、あの白い部屋から出て、歩いた。
どこへ行こうと思ったのかは、覚えていない。
鳴海さんに訊かれたとき、わたしはこう答えた。
――海のほうに、光が見えたので。
――明るいほうへ、歩いただけだと思います。
(……そういうことか)
わたしは、そのとき、なんとなく分かった気がした。
*
空が、白みはじめた。
水平線のあたりに、オレンジ色の線が入った。
あと、十分くらいだった。
*
わたしは、ポケットから、赤い包み紙を出した。
いちごのキャンディ。
三グラム。
ひなたが、あの人にあげたやつ。
あの人が、捨てかたが分からなかったやつ。
わたしのポケットに、五日間、入っていたやつ。
「これ」
「……ああ」
「捨てかた、教えます」
*
わたしは、包み紙を剥いた。
左手だけでやったので、少し手間取った。
赤い玉が、朝の光のなかで、つやつやと光った。
「口、開けてください」
「――は?」
「開けて」
「なにを」
「いいから」
*
夜鷹さんは、ものすごく嫌そうな顔をして、口を開けた。
わたしは、そこにキャンディを入れた。
彼女は、それを口に含んだまま、固まっていた。
「……甘い」
「そうでしょうね」
「甘すぎるわ」
「四歳児の趣味なので」
*
夜鷹さんは、しばらく、キャンディを舐めていた。
三年ぶりの砂糖だったのかもしれない。
その顔が、だんだん、変になっていった。
口の端が下がって、眉が寄って、目が潤んで。
――泣きかたを知らない人の顔だった。
「……ずるいわ」
「え」
「こんなもので」
「三グラムですよ」
「知ってる」
彼女は、そっぽを向いた。
「知ってるわよ」
*
水平線が、燃えはじめた。
*
「――行きます」
わたしは言った。
「……ええ」
「触ればいいんですか」
「ええ。抵抗しなければ、一瞬」
「抵抗しません」
「――そう」
*
わたしは、左手を伸ばした。
夜鷹さんの、胸のあたりに。
三日前、この人が指さした場所。
『それは私のものよ』
『あなたは、私の一部よ』
わたしは、そこに、手を当てた。
*
あたたかかった。
この人の体が、あたたかいことを、わたしはそのとき初めて知った。
*
「夜鷹さん」
「――灯里よ」
「灯里さん」
「なに」
わたしは、息を吸った。
「捨てないでください」
*
彼女の顔が、歪んだ。
「わたしを、じゃないです。もう、そういう話じゃない」
「――」
「これから入ってくるもの、たぶん、あなたが三年前に捨てたやつです」
わたしは、言った。
「今度は、持っててください」
*
夜鷹さんは、答えなかった。
答えるかわりに、残った左手を、わたしの背中に回した。
抱きしめる、というには、ぎこちなさすぎる動きだった。
やりかたを知らない人の動きだった。
それでも、腕は、ちゃんとわたしの背中に回った。
*
太陽が、出た。
*
東京湾の水平線から、光が、まっすぐに走ってきた。
埠頭のコンクリートが、オレンジに染まった。
わたしの浴衣――ではなく、着古したTシャツの袖が、光った。
わたしは、目を閉じた。
そして、うたった。
*
ゆっくりした、三拍子の、短い旋律。
最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。
わたしがうたえる、たった一つの歌。
三年前の最初の晩から、ずっとうたってきた歌。
誰のものかも分からない歌。
*
夜鷹さんの体が、びくりと震えた。
腕に、力がこもった。
わたしは、うたい続けた。
*
――溶けはじめたのが、分かった。
痛くはなかった。
手のひらの輪郭が、先に無くなった。
次に、腕。
重さの感覚のない右腕は、いちばん先に消えた。
(――ああ、そっか)
(切られたところから、無くなるんだ)
*
わたしは、最後に、思った。
(ひなた、ごめんね)
(佐伯さん、ありがとうございました)
(田辺さん、ほんとに、ごめんなさい)
(柏木さん、就職、がんばって)
(千早)
*
(千早)
*
(……ありがとう)
*
歌の、最後の一小節。
ふしぎな下がりかたをする、あの部分。
そこまでうたって、わたしの声は、途中で無くなった。
最後の音だけ、出せなかった。
*
――そして、わたしは、そこで終わった。




