5 この姿で逢うのは最後
八月七日の、夜十時。
わたしは、土手の上にいた。
通学路の、桜並木の下。
八月の桜は、葉がもさもさしているだけで、花なんて一つもなかった。
蝉は、もう鳴いていなかった。
かわりに、河川敷のほうから、虫の声がした。
*
千早は、先に来ていた。
草の上に座って、缶を二本、隣に置いて。
カフェオレだった。
「遅い」
「十時って言ったじゃん」
「五分前行動」
「習ってない」
「小学校で習うでしょ」
わたしは、隣に座った。
缶を受け取った。
百九十グラム。
*
わたしたちは、しばらく、何も喋らなかった。
川の音がしていた。
対岸のマンションの明かりが、水面に、細く伸びて映っていた。
五日前、ここで花火を見た。
三日前、夜が明けるまでここに座っていた。
この土手のことを、わたしは、たぶんいちばんよく覚えていくのだと思う。
*
「ましろ」
「うん」
「明日でしょ」
「うん」
「何時」
「日の出。五時ちょっと前」
「早っ」
「早い」
千早は、缶を開けた。
ぷしゅ、と気の抜けた音がした。
*
「あのさ」
「うん」
「わたし、行かないよ」
わたしは、千早を見た。
彼女は、川のほうを向いていた。
「見送り、行かない」
「……うん」
「行ったら、絶対、引き止めるから」
千早の横顔は、暗くてよく見えなかった。
「引き止めたら、ましろ、困るでしょ」
「……困る」
「でしょ」
「うん」
「だから、行かない」
*
わたしは、うなずいた。
それから、鞄から、赤い下駄を出した。
片方だけの。
「これ」
「あ」
「返す」
「もう片方どこ行った?」
「屋台のとこに落ちてた」
「両方ないと意味なくない?」
「ないね」
千早は、片方だけの下駄を受け取って、膝に乗せた。
そして、それをじっと見ていた。
*
「――傘は」
「え?」
「黄色いやつ。返さないよ」
「あげたんだから、いいよ」
「返さないからね」
「うん」
「壊れてても使えるんだから、えらいでしょ、あれ」
千早は、そう言った。
六月の、あの夜と同じ言いかたで。
へへ、と笑うところまで、同じだった。
*
わたしは、笑おうとした。
笑えなかった。
かわりに、変な音が喉から出た。
*
「千早」
「なに」
「ありがとう」
「はやい」
「はやくない」
「はやいって」
「はやくないの」
わたしは、言った。
「もう、時間ないの」
*
千早が、黙った。
*
「わたし、明日、あの人に還る」
「うん」
「たぶん、わたしの意識は残らない」
「うん」
「記憶は、あの人が持つと思う。でも、わたしのものとしてじゃない」
「……うん」
「だから」
わたしは、千早のほうを向いた。
「この姿で逢うのは、これが最後だね」
*
言った瞬間に、自分でびっくりした。
なんて残酷な言いかたをするんだろう、と思った。
でも、それしか、本当のことを言う方法がなかった。
*
千早は、動かなかった。
川の音がしていた。
虫が鳴いていた。
そして。
千早の頬を、一筋、落ちていくものがあった。
*
「――あ」
千早が、自分の頬に触れた。
「やば」
「千早」
「ちょっと待って、これ、違うから」
「千早」
「泣いてないから」
二筋目が、落ちた。
三筋目が、顎まで来て、草の上に落ちた。
*
わたしは、手を伸ばした。
左手を。
右腕は、もう使えなかったから。
千早の頬に、指を当てた。
――触れた。
壊さずに。
三年前のわたしなら、絶対にできなかったことだった。
*
指先に、雫が乗った。
〇・〇五グラム。
わたしは、その重さを、抜いた。
*
雫が、指から離れた。
ふわりと。
夜の空気のなかを、ゆっくりと上がっていった。
二粒目も。三粒目も。
千早の目からこぼれたものが、落ちるのをやめて、上へ、上へと昇っていった。
*
土手の上の、夏の夜に。
小さな水の粒が、いくつも浮かんだ。
対岸のマンションの明かりを、一つずつ、丸く抱えこんで。
空へ。
桜の葉のあいだをすり抜けて。
もっと上へ。
*
「…………ずる」
千早が言った。
顔を上げて、それを見ながら。
「ずるいって、それ」
「ごめん」
「ほんと、ずるい」
彼女は、両手で顔を覆った。
覆った指のあいだから、また雫が落ちて、また、上がっていった。
*
わたしは、それを、全部浮かべた。
千早が泣いているあいだ、ずっと。
一粒も、地面に落とさなかった。
三年間、わたしはこの手で、ものを潰してきた。
いま、この手は、泣いている子の涙を、空へ運んでいた。
*
「――ましろ」
しばらくして、千早が言った。
鼻声だった。
「なに」
「あのさ、これだけ言っとく」
「うん」
千早は、顔を上げた。
目のまわりが、真っ赤だった。
「わたしは、忘れないから」
「……うん」
「ましろが消えても、わたしが覚えてる」
「うん」
「わたしが死ぬまで、この世界に、湊真白がいたことになってるから」
*
わたしは、うなずいた。
うなずいて、それから、こう言った。
「――千早」
「なに」
「わたし、名前がなかったんだ」
「知ってる」
「三年前に、裁判所が作ったやつだから」
「うん」
「でも、いいや」
わたしは、空に浮かんだ涙を見上げた。
「千早が呼んでくれたから、わたしの名前でいいや」
*
千早は、何も言わなかった。
かわりに、わたしの左手を握った。
ぎゅう、と。
骨が鳴りそうなくらい、強く。
わたしは、握り返した。
壊さずに。
ちゃんと、加減して。
*
別れ際、千早は、こう言った。
「ましろ」
「うん」
「もし」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。
「もしさ、なんかの間違いで、ましろがまだどっかに残ってたら」
「……うん」
「土手に来て」
千早は、桜並木を指した。
「ここ、毎日通るから。三年生も通るから。卒業しても、たぶん通るから」
「うん」
「だから、来て」
わたしは、うなずいた。
できない約束を、しないと決めていた。
なのに、そのときだけは、うなずいてしまった。
*
千早は、片方だけの赤い下駄を抱えて、坂を下りていった。
一度も、振り返らなかった。
わたしは、その背中が見えなくなるまで、立っていた。
頭の上には、まだ、涙が浮かんでいた。
わたしは、それを、そのままにしておいた。
朝になれば、蒸発して、空に混ざる。
それでいい、と思った。




