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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第七章 この姿で逢うのは最後

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5 この姿で逢うのは最後

 八月七日の、夜十時。


 わたしは、土手の上にいた。


 通学路の、桜並木の下。


 八月の桜は、葉がもさもさしているだけで、花なんて一つもなかった。


 蝉は、もう鳴いていなかった。


 かわりに、河川敷のほうから、虫の声がした。



 千早は、先に来ていた。


 草の上に座って、缶を二本、隣に置いて。


 カフェオレだった。


「遅い」


「十時って言ったじゃん」


「五分前行動」


「習ってない」


「小学校で習うでしょ」


 わたしは、隣に座った。


 缶を受け取った。


 百九十グラム。



 わたしたちは、しばらく、何も喋らなかった。


 川の音がしていた。


 対岸のマンションの明かりが、水面に、細く伸びて映っていた。


 五日前、ここで花火を見た。


 三日前、夜が明けるまでここに座っていた。


 この土手のことを、わたしは、たぶんいちばんよく覚えていくのだと思う。



「ましろ」


「うん」


「明日でしょ」


「うん」


「何時」


「日の出。五時ちょっと前」


「早っ」


「早い」


 千早は、缶を開けた。


 ぷしゅ、と気の抜けた音がした。



「あのさ」


「うん」


「わたし、行かないよ」


 わたしは、千早を見た。


 彼女は、川のほうを向いていた。


「見送り、行かない」


「……うん」


「行ったら、絶対、引き止めるから」


 千早の横顔は、暗くてよく見えなかった。


「引き止めたら、ましろ、困るでしょ」


「……困る」


「でしょ」


「うん」


「だから、行かない」



 わたしは、うなずいた。


 それから、鞄から、赤い下駄を出した。


 片方だけの。


「これ」


「あ」


「返す」


「もう片方どこ行った?」


「屋台のとこに落ちてた」


「両方ないと意味なくない?」


「ないね」


 千早は、片方だけの下駄を受け取って、膝に乗せた。


 そして、それをじっと見ていた。



「――傘は」


「え?」


「黄色いやつ。返さないよ」


「あげたんだから、いいよ」


「返さないからね」


「うん」


()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()


 千早は、そう言った。


 六月の、あの夜と同じ言いかたで。


 へへ、と笑うところまで、同じだった。



 わたしは、笑おうとした。


 笑えなかった。


 かわりに、変な音が喉から出た。



「千早」


「なに」


「ありがとう」


「はやい」


「はやくない」


「はやいって」


「はやくないの」


 わたしは、言った。


「もう、時間ないの」



 千早が、黙った。



「わたし、明日、あの人に還る」


「うん」


「たぶん、わたしの意識は残らない」


「うん」


「記憶は、あの人が持つと思う。でも、()()()()()()()()()()()()()


「……うん」


「だから」


 わたしは、千早のほうを向いた。


()()姿()()()()()()()()()()()()()



 言った瞬間に、自分でびっくりした。


 なんて残酷な言いかたをするんだろう、と思った。


 でも、それしか、本当のことを言う方法がなかった。



 千早は、動かなかった。


 川の音がしていた。


 虫が鳴いていた。


 そして。


 千早の頬を、一筋、落ちていくものがあった。



「――あ」


 千早が、自分の頬に触れた。


「やば」


「千早」


「ちょっと待って、これ、違うから」


「千早」


()()()()()()()


 二筋目が、落ちた。


 三筋目が、顎まで来て、草の上に落ちた。



 わたしは、手を伸ばした。


 左手を。


 右腕は、もう使えなかったから。


 千早の頬に、指を当てた。


 ――()()()


 壊さずに。


 三年前のわたしなら、絶対にできなかったことだった。



 指先に、雫が乗った。


 〇・〇五グラム。


 わたしは、その重さを、抜いた。



 雫が、指から離れた。


 ふわりと。


 夜の空気のなかを、ゆっくりと上がっていった。


 二粒目も。三粒目も。


 千早の目からこぼれたものが、落ちるのをやめて、上へ、上へと昇っていった。



 土手の上の、夏の夜に。


 小さな水の粒が、いくつも浮かんだ。


 対岸のマンションの明かりを、一つずつ、丸く抱えこんで。


 空へ。


 桜の葉のあいだをすり抜けて。


 もっと上へ。



「…………ずる」


 千早が言った。


 顔を上げて、それを見ながら。


「ずるいって、それ」


「ごめん」


「ほんと、ずるい」


 彼女は、両手で顔を覆った。


 覆った指のあいだから、また雫が落ちて、また、上がっていった。



 わたしは、それを、全部浮かべた。


 千早が泣いているあいだ、ずっと。


 一粒も、地面に落とさなかった。


 三年間、わたしはこの手で、ものを潰してきた。


 いま、この手は、泣いている子の涙を、空へ運んでいた。



「――ましろ」


 しばらくして、千早が言った。


 鼻声だった。


「なに」


「あのさ、これだけ言っとく」


「うん」


 千早は、顔を上げた。


 目のまわりが、真っ赤だった。


()()()()()()()()()()


「……うん」


「ましろが消えても、わたしが覚えてる」


「うん」


「わたしが死ぬまで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()から」



 わたしは、うなずいた。


 うなずいて、それから、こう言った。


「――千早」


「なに」


「わたし、名前がなかったんだ」


「知ってる」


「三年前に、裁判所が作ったやつだから」


「うん」


「でも、いいや」


 わたしは、空に浮かんだ涙を見上げた。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 千早は、何も言わなかった。


 かわりに、わたしの左手を握った。


 ぎゅう、と。


 骨が鳴りそうなくらい、強く。


 わたしは、握り返した。


 壊さずに。


 ちゃんと、加減して。



 別れ際、千早は、こう言った。


「ましろ」


「うん」


()()


 彼女は、そこで一度、言葉を切った。


「もしさ、なんかの間違いで、ましろがまだどっかに残ってたら」


「……うん」


()()()()()


 千早は、桜並木を指した。


「ここ、毎日通るから。三年生も通るから。卒業しても、たぶん通るから」


「うん」


「だから、来て」


 わたしは、うなずいた。


 できない約束を、しないと決めていた。


 なのに、そのときだけは、うなずいてしまった。



 千早は、片方だけの赤い下駄を抱えて、坂を下りていった。


 一度も、振り返らなかった。


 わたしは、その背中が見えなくなるまで、立っていた。


 頭の上には、まだ、涙が浮かんでいた。


 わたしは、それを、そのままにしておいた。


 朝になれば、蒸発して、空に混ざる。


 それでいい、と思った。

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