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東京グラヴィティ  作者: parupuntist
第七章 この姿で逢うのは最後

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40/50

4 五日

 五日間のことを、どう書けばいいのか、いまでも分からない。


 わたしは、いろんな人に会いに行った。


 誰にも、本当のことは言わなかった。


 それが正しかったのかは、分からない。



 ()()()()


 若葉園に帰って、二十時間眠った。


 起きたら、佐伯さんが枕元に座っていた。


「生きてる?」


「生きてます」


「その肩、どうしたの」


「転びました」


「あんた、転びすぎよ」


 湿布を貼られて、絆創膏を貼られて、おかゆを食べさせられた。


 右腕のことは、言わなかった。


 言っても、湿布は貼れない。



 ()()()()


 わたしは、佐伯さんに、嘘をついた。


 人生でいちばん大きな嘘だった。


「――遠い親戚が、見つかったんです」


 夜鷹さんが用意した書類は、完璧だった。


 封筒も、判子も、書式も、本物にしか見えなかった。


 就籍のときの関係者。後見の申し出。転居先。


 佐伯さんは、それを三十分かけて読んだ。


 読み終わって、老眼鏡を外して、言った。


「……よかったじゃない」


「はい」


「よかったわねえ、ましろちゃん」


 その声は、少しも、よかったという声ではなかった。



「いつ行くの」


「八日の朝です」


「早いわね」


「……はい」


「荷物は」


「あんまり、ないです」


「そうよねえ。あんた、物持たないもんね」


 佐伯さんは、書類を封筒に戻した。


 そして、しばらく手元を見ていた。


「ましろちゃん」


「はい」


「あたしね、二十八年この仕事やってて」


「はい」


「子どもが嘘つくときの顔なんて、何千回も見てんのよ」


 わたしの心臓が、止まりかけた。



 でも、佐伯さんは、それ以上何も言わなかった。


 かわりに、こう言った。


「――行ってらっしゃい」


 ぱん、と手を叩いて、いつもの大きな声で。


「うちの子は、みんな、いつか出てくの。あんたも同じ。それだけの話よ」


「……はい」


「はい、じゃない。()()()()()()()()()


 わたしは、うつむいた。


 そして、言った。


「――行ってきます」



 ()()()()


 わたしは、電車に乗って、四十分かけて、あの団地へ行った。


 向かいの児童公園のベンチに座って、二時間待った。


 六時すぎに、田辺さんが出てきた。


 コンビニの袋を、両方の前腕にひっかけて。


 わたしは、立ち上がった。


 そして、今度は、()()()()()()



「あの」


「はい?」


「――二年前の、駅のホームのことなんですけど」


 田辺さんは、足を止めた。


 わたしを見た。


 じっと、見た。


 そして。


「……ああ」


 彼は、そう言った。


「あんた、あんときの子か」



 わたしは、うなずけなかった。


 声も出なかった。


 田辺さんは、袋を持ち直して、少し困ったような顔をした。


「いや、あのな」


「……はい」


「俺、酔っててさ。覚えてないことのほうが多いんだわ」


「――」


「でも、一個だけ覚えてる」


 彼は、自分の腕を見た。


 曲がらない肘を。


()()()()()()()()()()()()



 わたしの視界が、滲んだ。


「俺の腕が変な方向になってさ、周りが大騒ぎしてて、俺も痛くて叫んでて」


「はい」


「そんで、あんたが、俺より大きい声で泣いてた」


 田辺さんは、ふ、と息を吐いた。


「あんとき思ったんだよ。()()()()()()()()()()()()()()()()



「……すみません」


 わたしは、頭を下げた。


 深く、下げた。


「すみませんでした」


「もういいよ」


「よくないです」


「よくないけど、もういいよ」


 田辺さんは、袋を抱え直した。


「二年経った。もういいよ」



 わたしは、頭を下げたまま、動けなかった。


 しばらくして、田辺さんが、こう言った。


「――あのさ」


「はい」


「先週な、卵落としたのに、割れなかったんだわ」


 わたしは、顔を上げた。


「え」


「いや、変な話なんだけどさ。手から滑って、落ちて、絶対割れたと思ったのに、割れてなかったの」


 彼は、少し笑った。


「あれから、なんかさ。ちょっとだけ、ましなんだよ。気分が」


 わたしは、何も言えなかった。


「変な話だろ」


「……はい」


「じゃ」


 田辺さんは、そのまま、団地のほうへ歩いていった。


 最後まで、こちらを振り返らなかった。



 ()()()()


 柏木さんと、ファミレスで会った。


 彼女は、履歴書を五枚持っていた。


「職歴の書きかたが分かんない」


「剪定会って書けないですもんね」


「書けるわけないでしょ」


 結局、「造園業」と書くことにした。


 半分、本当だった。



「あんた、八日でしょ」


「はい」


「……ほんとに行くの」


「行きます」


 柏木さんは、ドリンクバーのメロンソーダを、ストローでかき混ぜていた。


「ねえ」


「はい」


「わたし、七年、人の異能刈ってきたんだけど」


「はい」


()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 彼女は、そう言って、笑おうとして、失敗した。



 別れ際、彼女は、封筒を押しつけてきた。


 なかには、二万円入っていた。


「いりません」


「いるでしょ」


「いりません」


()()()


 わたしは、受け取った。


 受け取って、それを、若葉園の玄関の献金箱に入れた。



 その帰りに、運河沿いの倉庫へ寄った。


 最後に来たのは、七月の頭だった。


 錆びた扉。割れたガラス。垂れたワイヤー。油のしみ。


 何も変わっていなかった。


 シャッターの隙間から、夕日が一本、線みたいに差し込んでいた。


 その線のなかを、埃が、ゆっくり回っていた。



 床に、コップが二つ、並んだままだった。


 わたしは、その前にしゃがんだ。


 右、三百二十グラム。


 左、百八十グラム。


 合計、五百グラム。


 ――今度は、目をつぶってやった。


 右の重さを抜いて、左に乗せる。


 一グラムも余らせずに。


 ()()()


 二つのコップは、静かに、重さを交換した。



 この倉庫で、わたしは卵を六十個割った。


 毎朝五時に起きて、怒鳴られて、走らされて、倒れて。


 三ヶ月しか経っていない。


 三ヶ月しか経っていないのに、あのころのわたしと、いまのわたしは、もう別人だった。


 わたしは、コップを元に戻した。


 立ち上がって、倉庫を出た。


 出るとき、一度だけ、振り返った。


 「ありがとうございました」


 誰もいない倉庫に、そう言った。


 物に謝るのはやめなさい、と、あの人は言った。


 お礼は、たぶん、いいだろうと思った。



 ()()()()


 わたしは、一日じゅう、ノートを書いていた。


 大学ノートの三冊目。


 三年間、物の名前ばかり書いてきたノート。


 わたしは、最初のページから、全部読み返した。


 筆箱。コップ。洗濯機。机の脚。階段の手すり。電柱。


 三年ぶんの、壊したもの。


 そして、最後のページに、わたしは、名前を書いた。



 『()()()()さん 腕 治りません 二年』


 『()()さん 左腕 三ヶ月 治ります』



 それから、下に、もう一行、書いた。



 『()()() ―― 治りました』



 ノートを閉じて、引き出しに戻した。


 誰かが見つけたら、意味が分からないと思う。


 それでいい。



 その夜、ひなたが、うたってと言った。


 わたしは、うたった。


 三拍子の、短い歌。最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。


 ひなたは、五回目のくりかえしで、寝た。


 いつもどおりだった。


 わたしは、その子の寝顔を、長いこと見ていた。


 肩に、十四キロが預けられていた。


 わたしは、それを、そっと下ろした。


 ――()()()()()()()()()()

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