4 五日
五日間のことを、どう書けばいいのか、いまでも分からない。
わたしは、いろんな人に会いに行った。
誰にも、本当のことは言わなかった。
それが正しかったのかは、分からない。
*
八月三日。
若葉園に帰って、二十時間眠った。
起きたら、佐伯さんが枕元に座っていた。
「生きてる?」
「生きてます」
「その肩、どうしたの」
「転びました」
「あんた、転びすぎよ」
湿布を貼られて、絆創膏を貼られて、おかゆを食べさせられた。
右腕のことは、言わなかった。
言っても、湿布は貼れない。
*
八月四日。
わたしは、佐伯さんに、嘘をついた。
人生でいちばん大きな嘘だった。
「――遠い親戚が、見つかったんです」
夜鷹さんが用意した書類は、完璧だった。
封筒も、判子も、書式も、本物にしか見えなかった。
就籍のときの関係者。後見の申し出。転居先。
佐伯さんは、それを三十分かけて読んだ。
読み終わって、老眼鏡を外して、言った。
「……よかったじゃない」
「はい」
「よかったわねえ、ましろちゃん」
その声は、少しも、よかったという声ではなかった。
*
「いつ行くの」
「八日の朝です」
「早いわね」
「……はい」
「荷物は」
「あんまり、ないです」
「そうよねえ。あんた、物持たないもんね」
佐伯さんは、書類を封筒に戻した。
そして、しばらく手元を見ていた。
「ましろちゃん」
「はい」
「あたしね、二十八年この仕事やってて」
「はい」
「子どもが嘘つくときの顔なんて、何千回も見てんのよ」
わたしの心臓が、止まりかけた。
*
でも、佐伯さんは、それ以上何も言わなかった。
かわりに、こう言った。
「――行ってらっしゃい」
ぱん、と手を叩いて、いつもの大きな声で。
「うちの子は、みんな、いつか出てくの。あんたも同じ。それだけの話よ」
「……はい」
「はい、じゃない。行ってきます、でしょ」
わたしは、うつむいた。
そして、言った。
「――行ってきます」
*
八月五日。
わたしは、電車に乗って、四十分かけて、あの団地へ行った。
向かいの児童公園のベンチに座って、二時間待った。
六時すぎに、田辺さんが出てきた。
コンビニの袋を、両方の前腕にひっかけて。
わたしは、立ち上がった。
そして、今度は、歩いていった。
*
「あの」
「はい?」
「――二年前の、駅のホームのことなんですけど」
田辺さんは、足を止めた。
わたしを見た。
じっと、見た。
そして。
「……ああ」
彼は、そう言った。
「あんた、あんときの子か」
*
わたしは、うなずけなかった。
声も出なかった。
田辺さんは、袋を持ち直して、少し困ったような顔をした。
「いや、あのな」
「……はい」
「俺、酔っててさ。覚えてないことのほうが多いんだわ」
「――」
「でも、一個だけ覚えてる」
彼は、自分の腕を見た。
曲がらない肘を。
「あんた、あんとき、泣いてたろ」
*
わたしの視界が、滲んだ。
「俺の腕が変な方向になってさ、周りが大騒ぎしてて、俺も痛くて叫んでて」
「はい」
「そんで、あんたが、俺より大きい声で泣いてた」
田辺さんは、ふ、と息を吐いた。
「あんとき思ったんだよ。この子、俺より痛いんじゃないかって」
*
「……すみません」
わたしは、頭を下げた。
深く、下げた。
「すみませんでした」
「もういいよ」
「よくないです」
「よくないけど、もういいよ」
田辺さんは、袋を抱え直した。
「二年経った。もういいよ」
*
わたしは、頭を下げたまま、動けなかった。
しばらくして、田辺さんが、こう言った。
「――あのさ」
「はい」
「先週な、卵落としたのに、割れなかったんだわ」
わたしは、顔を上げた。
「え」
「いや、変な話なんだけどさ。手から滑って、落ちて、絶対割れたと思ったのに、割れてなかったの」
彼は、少し笑った。
「あれから、なんかさ。ちょっとだけ、ましなんだよ。気分が」
わたしは、何も言えなかった。
「変な話だろ」
「……はい」
「じゃ」
田辺さんは、そのまま、団地のほうへ歩いていった。
最後まで、こちらを振り返らなかった。
*
八月六日。
柏木さんと、ファミレスで会った。
彼女は、履歴書を五枚持っていた。
「職歴の書きかたが分かんない」
「剪定会って書けないですもんね」
「書けるわけないでしょ」
結局、「造園業」と書くことにした。
半分、本当だった。
*
「あんた、八日でしょ」
「はい」
「……ほんとに行くの」
「行きます」
柏木さんは、ドリンクバーのメロンソーダを、ストローでかき混ぜていた。
「ねえ」
「はい」
「わたし、七年、人の異能刈ってきたんだけど」
「はい」
「刈られる側に、また会うとは思わなかった」
彼女は、そう言って、笑おうとして、失敗した。
*
別れ際、彼女は、封筒を押しつけてきた。
なかには、二万円入っていた。
「いりません」
「いるでしょ」
「いりません」
「慰謝料」
わたしは、受け取った。
受け取って、それを、若葉園の玄関の献金箱に入れた。
*
その帰りに、運河沿いの倉庫へ寄った。
最後に来たのは、七月の頭だった。
錆びた扉。割れたガラス。垂れたワイヤー。油のしみ。
何も変わっていなかった。
シャッターの隙間から、夕日が一本、線みたいに差し込んでいた。
その線のなかを、埃が、ゆっくり回っていた。
*
床に、コップが二つ、並んだままだった。
わたしは、その前にしゃがんだ。
右、三百二十グラム。
左、百八十グラム。
合計、五百グラム。
――今度は、目をつぶってやった。
右の重さを抜いて、左に乗せる。
一グラムも余らせずに。
できた。
二つのコップは、静かに、重さを交換した。
*
この倉庫で、わたしは卵を六十個割った。
毎朝五時に起きて、怒鳴られて、走らされて、倒れて。
三ヶ月しか経っていない。
三ヶ月しか経っていないのに、あのころのわたしと、いまのわたしは、もう別人だった。
わたしは、コップを元に戻した。
立ち上がって、倉庫を出た。
出るとき、一度だけ、振り返った。
「ありがとうございました」
誰もいない倉庫に、そう言った。
物に謝るのはやめなさい、と、あの人は言った。
お礼は、たぶん、いいだろうと思った。
*
八月七日。
わたしは、一日じゅう、ノートを書いていた。
大学ノートの三冊目。
三年間、物の名前ばかり書いてきたノート。
わたしは、最初のページから、全部読み返した。
筆箱。コップ。洗濯機。机の脚。階段の手すり。電柱。
三年ぶんの、壊したもの。
そして、最後のページに、わたしは、名前を書いた。
*
『田辺修一さん 腕 治りません 二年』
『柏木さん 左腕 三ヶ月 治ります』
*
それから、下に、もう一行、書いた。
*
『湊真白 ―― 治りました』
*
ノートを閉じて、引き出しに戻した。
誰かが見つけたら、意味が分からないと思う。
それでいい。
*
その夜、ひなたが、うたってと言った。
わたしは、うたった。
三拍子の、短い歌。最後だけ、ふしぎな下がりかたをする歌。
ひなたは、五回目のくりかえしで、寝た。
いつもどおりだった。
わたしは、その子の寝顔を、長いこと見ていた。
肩に、十四キロが預けられていた。
わたしは、それを、そっと下ろした。
――一グラムも、こぼさずに。




