3 お願いします
柏木さんが、千早を家まで送っていった。
「お母さんに、なんて言うの」と訊いたら、千早は「花火のあと、友達んち泊まった」と即答した。
嘘のつきかたが、わたしより上手かった。
二人が行ってしまうと、工事現場には、わたしと夜鷹さんだけが残った。
朝の六時半。
もう、完全に明るくなっていた。
*
「――夜鷹さん」
「なに」
「帰ります」
彼女の肩が、わずかに動いた。
「そう」
「そうじゃなくて」
わたしは、言い直した。
「あなたのところに、帰ります」
*
夜鷹さんは、こちらを見なかった。
空っぽの空を、見ていた。
昨日まで鉄の星が浮かんでいた場所を。
「――いいわ」
やがて、彼女は言った。
「え」
「いいと言ったの。帰らなくていい」
「……は?」
「聞こえなかった?」
*
わたしは、三秒くらい、意味が分からなかった。
「ちょっと待ってください」
「なに」
「三日前、命令したじゃないですか」
「したわね」
「戻ってこいって」
「言ったわ」
「わたし、それに怒って、窓を全部割ったんですけど」
「割られたわね」
「じゃあ、なんで」
*
夜鷹さんは、そこで、初めてこちらを向いた。
朝日のなかで、その顔は、ひどく疲れて見えた。
そして、ひどく――若く見えた。
「昨日のあれを、見たからよ」
「……」
「あなたは、あれができる。私には、絶対にできなかったことよ」
彼女は、透けた左手を持ち上げた。
「それを、私の中に戻す? もったいないでしょう」
「もったいないって」
「私は、あれを一度、捨てた人間なの」
*
「捨てた人間が、今さら返せと言うのは、たしかに勝手だった」
夜鷹さんは言った。
わたしが三日前、割れた窓のなかで叫んだ言葉を、そのまま。
「散々苦労させて、捨てておいて、今さら返せなんて」
「――夜鷹さん」
「あなたの言うとおりだったわ」
*
わたしは、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「ずるいです」
「……なに?」
「ずるいって言ったんです」
わたしは、一歩、前に出た。
「あなた、いま、ものすごくずるいことをしてます」
「――」
「命令して、断られて、それで今度はいらないって言うんですか」
*
夜鷹さんの目が、揺れた。
「そうやって、いつも先に手を離すんですね」
「……」
「三年前もそうでしょう。切ってくださいって、自分から頼んだんでしょう。持ってるのが怖いから、先に捨てたんでしょう」
「――やめなさい」
「やめません」
*
わたしは、言った。
声が、震えていた。
「わたしは、捨てられるのは、もう二度といやです」
朝の風が、二人のあいだを吹き抜けた。
「三年前、あなたはわたしを切って捨てた。三日前、あなたはわたしに戻れと命令した。そして今日、いらないって言う」
「――」
「全部、あなたが決めてる」
*
「一回でいいから、わたしに決めさせてください」
*
夜鷹さんは、動かなかった。
わたしは、続けた。
「わたしは、帰ります」
「……」
「捨てられるからじゃない。命令されたからでもない。わたしが、そうしたいから」
「なぜ」
彼女は、掠れた声で訊いた。
「なぜ、そうしたいの」
*
わたしは、少し考えた。
考えて、正直に答えることにした。
「昨日、あなたが立ったとき」
「……」
「三グラムで、足が床についたとき」
わたしは言った。
「うれしかったんです」
*
「たった三グラムです。キャンディ一個ぶんです。それだけで、あの人が三年ぶりに地面に立った」
「――」
「そのとき思ったんです。もっとあげられるのに、って」
夜鷹さんの顔が、歪んだ。
「わたし、三十キロ持ってます」
わたしは、自分の胸を、こつんと叩いた。
「持ってて、使い道が、一つしかない」
*
長い沈黙があった。
遠くで、朝のトラックが走っていく音がした。
カモメが鳴いた。
夜鷹さんは、透けた左手で、目のあたりを押さえていた。
押さえて、しばらく、そのままだった。
*
「――条件が、二つあります」
わたしは言った。
「……なに」
「一つ。五日ください」
「五日」
「お別れを言ってきます。いろんな人に」
夜鷹さんは、うなずいた。
「いいわ」
「二つ目」
わたしは、彼女の前に立った。
まっすぐに、目を見た。
*
「お願いします、って言ってください」
*
夜鷹さんの動きが、止まった。
三日前と、同じ顔をした。
質問の意味が分からない、という顔。
――本当に、分からないのだ。
この人は、三十年近く、人に何かを頼まずに生きてきた。
たった一度の例外が、三年前の「切ってください」だった。
「……それは」
「言えないんですか」
「――言いかたが」
「知ってます」
わたしは、うなずいた。
「知ってるから、待ちます」
*
朝の六時四十分から、六時五十二分まで。
十二分かかった。
その十二分のあいだ、夜鷹さんは、何度も口をひらいた。
ひらいて、閉じた。
息を吸って、止めた。
透けた左手が、何度も、コートの裾を握った。
わたしは、待った。
三年待った人が、十二分くらい待てないわけがなかった。
*
そして、六時五十二分に。
その人は、言った。
*
「――帰って、きてくれる?」
*
ひどく、下手な言いかただった。
語尾が震えていた。
目も合っていなかった。
三十年ぶんの錆が、全部、その一言にこびりついていた。
わたしは、うなずいた。
何度も、うなずいた。
「はい」
*
「――八月八日の、朝」
わたしは言った。
「三年前、わたしが見つかった埠頭で」
「……ええ」
「日の出のとき、そこにいてください」
夜鷹さんは、うなずいた。
そして、ひどく小さな声で、つけ加えた。
「――待ってる」
その言葉を、この人が誰かに言ったのは、たぶん、三年ぶりだった。




