2 四十七キロ
「……二キロ?」
千早は、きょとんとしていた。
「ダイエットじゃん」
「違う」
「昨日から走り回ってるし」
「違うの」
わたしは、首を振った。
声が震えていた。
「汗とか、そういうのじゃない。そういうのは、抜けた場所が分かる。これは、違う」
*
わたしは、千早の腕を取った。
手首の内側。
朝日にかざした。
――うっすらと、透けていた。
血管が見えるのとは違う。
その向こう側の、コンクリートが、ぼんやりと見えた。
「……え」
千早の声が、初めて、揺れた。
「なにこれ」
「夜鷹さんと、同じ」
*
夜鷹さんが、缶を置いて、立ち上がった。
わたしのそばまで来て、千早の腕を見た。
そして、目を伏せた。
「――そうね」
彼女は言った。
「当たり前の話だわ」
「当たり前?」
「あなたは、異能そのものよ」
夜鷹さんは、わたしを見た。
「私は器で、あなたは中身だった。中身は、器がないと存在できない。三年間、あなたはあなた自身を器にして、なんとか保っていた」
「……はい」
「でも、昨日、あなたはその子のなかに入った」
*
わたしは、息が止まりそうになった。
「二つの心を一つにするには、燃やすものが要る」
「燃やす」
「重さよ。存在の」
夜鷹さんは、淡々と続けた。
「私は三年かけて、三十キロ以上を漏らした。あなたたちは、一晩で二キロ」
――計算は、すぐにできた。
わたしは、重さの計算だけは、誰より速い。
「……一日、二キロ」
「そうね」
「千早は、四十七キロ」
「ええ」
「――二十三日」
*
風が吹いた。
埋立地の砂が、足元を流れていった。
柏木さんが、口を押さえていた。
わたしは、千早の手首を握ったまま、動けなかった。
*
「じゃあさ」
千早が言った。
ものすごく、いつもどおりの声だった。
「二十三日あるじゃん」
「――え」
「二十三日あれば、いろいろできるでしょ」
「千早」
「だってさ、ましろ」
彼女は、わたしの手を、逆に握り返してきた。
「いま、わたしたち、めちゃくちゃ強いよ」
*
それは、本当だった。
昨日、わたしたちは三百四十七トンを東京に配った。
一人では、絶対にできなかった。
二人だから、できた。
(――じゃあ、夜鷹さんも)
その考えが、わたしの頭に浮かんだのと、千早の頭に浮かんだのは、同時だった。
いや、同時というより、同じ場所に浮かんだ。
*
「あの人、三十キロ足りないんでしょ」
千早が言った。
「昨日、三グラムあげたら立てた。じゃあ、三十キロ配れば、治るんじゃないの?」
「――」
「東京中から、ちょっとずつ集めればさ。一人〇・〇〇二グラムでしょ。誰も気づかないじゃん」
わたしは、答えられなかった。
できるかもしれない、と思ってしまったからだ。
*
「無駄よ」
夜鷹さんが、言った。
「なんでですか」
「配るのと、集めるのは、違うわ」
彼女は、自分の透けた左手を持ち上げた。
「重さは、受け取り手がいるところにしか行けない。私には、もう受け取る場所がない。三グラムが限界だった」
「やってみないと」
「やったでしょう。昨日、その子が」
夜鷹さんは、わたしを見た。
「三グラムで、止まった。それ以上は入らなかった。私は、そういう形になってしまったの」
*
「――器が要る、って言いましたよね」
わたしは言った。
「ええ」
「わたしが、器ですか」
夜鷹さんは、答えなかった。
答えないことが、答えだった。
*
わたしは、千早を見た。
千早も、わたしを見た。
同じ目で、同じものを見ていたのに、そのとき初めて、二人の考えが割れた。
*
(――やだ)
(千早)
(やだって言ってんの)
(二十三日で、千早が死ぬ)
(死なないよ)
(死ぬ)
(じゃあ二十二日目でやめる!)
(やめられない!)
*
わたしは、叫んでいた。
声に出して。
「やめられないの!」
千早が、びくりとした。
「一日二キロだよ! 十日で二十キロ減るんだよ! そのとき千早の足は地面につかないよ! 走れないよ! 学校行けないよ! お母さんが、あの家で、透けていく千早を見るんだよ!」
「――」
「わたし、それ見たの。昨日。夜鷹さんが、椅子にロープで縛られて、浮かないようにしてるとこ見たの」
わたしの目から、涙が出ていた。
「あんなの、千早にさせない」
*
千早は、黙っていた。
長い、長い時間。
朝日が、だんだん高くなっていった。
ゴミ収集車が、遠くの道を走っていく音がした。
どこかで、カラスが鳴いた。
*
「……ましろ」
「うん」
「一個、聞いていい」
「うん」
「ましろは、どうしたいの」
*
わたしは、言葉に詰まった。
どうしたい。
三年間、誰にも訊かれたことのない質問だった。
わたしの望みなんて、ずっと、一つしかなかった。
誰も傷つけないこと。
でも、それは、望みじゃない。
条件だ。
*
「――生きたい」
わたしは、言った。
言ってから、自分でびっくりした。
「生きたいよ。ほんとは。花火も見たいし、卵焼き食べたいし、ひなたにうたってあげたいし、千早と三年生になりたい」
「うん」
「なりたいけど」
わたしは、千早の手首を、そっと離した。
「千早を燃やして生きるのは、いや」
*
千早の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
子どもみたいに。
それでも、声は出さなかった。
「……ずるいよ、それ」
「ごめん」
「そんなの、わたしが引き止められないやつじゃん」
「……ごめん」
「謝んなって、いつも言ってんのに」
*
わたしたちは、しばらく、そうしていた。
融合したままだと、隠せるものが、何も無かった。
千早の悔しさも、恐怖も、わたしへの怒りも、全部こっちに流れてきた。
わたしの安心も、全部あっちへ流れていった。
安心してしまったことを、わたしは一生、恥じると思う。
*
「――ましろ」
「うん」
「離すよ」
「うん」
「わたしが決めた。ましろが言ったからじゃない」
「うん」
「それだけは、間違えないで」
千早は、わたしの両手を取った。
そして、額を、こつん、と合わせた。
「わたしが、決めた」
「……うん」
「わたしは、生きて、ましろを覚えてる係になる」
*
わたしは、うなずいた。
そして、目を閉じた。
*
離すのは、つなぐより、ずっと簡単だった。
境目を、思い出すだけでよかった。
ここからが、わたし。
ここからが、千早。
線を、引き直す。
*
――音が、遠くなった。
千早の心臓の音が、聞こえなくなった。
千早の見ている景色が、消えた。
千早の考えが、こちらへ来なくなった。
二つあった世界が、一つに戻った。
狭かった。
ものすごく、狭かった。
*
目を開けると、千早が、目の前に立っていた。
ただの、他人として。
手の届く距離に、ちゃんと、離れて。
それが、こんなにさびしいことだとは、思わなかった。
*
「……ましろ」
「うん」
「声、聞こえなくなった」
「うん」
「めっちゃさびしいんだけど」
「……うん」
千早は、自分の手首を見た。
透けていたところが、朝日のなかで、ゆっくりと、元の色に戻っていくところだった。
「戻ってる」
「戻ってるね」
「二キロは?」
「……たぶん、戻らない」
「まじか」
千早は、自分のお腹をさすった。
「じゃあ、唐揚げ食べる」
わたしは、笑った。
笑いながら、また泣いた。




