第9話 他人の命令まで拒めるらしい
「どうか、どうか聖女様……! 私への『命令』を、止めてください……ッ!」
石の廊下に這いつくばった初老の料理人が、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながらリシェルに縋り付いてきた。
彼の背中には、リシェルの目にだけ映る禍々しい『灰色の糸』が、太い蛇のように絡みついている。
「落ち着いてください。あなたは何を命じられているのですか」
「ど、毒を……! 今日の昼餐で、聖女様のスープに泥這草の粉末を混ぜろと……ッ! 手が、私の意志に関係なく動こうとするのです。これでは、私はあなたを殺してしまう!」
料理人は自らの右手を左手で必死に押さえつけながら、恐怖に震えていた。
皇帝の『勅声』を模した偽勅。それが書面という形で、離宮の使用人たちにまで無差別にばら撒かれているのだ。
(今日だけで、これで三人目……)
リシェルは微かに息を乱しながら、男の背中の糸を見据えた。
実は今朝早く、皇帝の執務室の掃除に入った侍女二人が、「重要書類を暖炉に投げ入れろ」という偽勅に操られかけていた。彼女たちも自分の意志に反して動く身体に恐怖し、リシェルに助けを求めたのだ。
その時、リシェルは感覚として理解した。自分に向けられた命令だけでなく、本人が明確に「止めてほしい」と依頼した場合に限り、他人に絡みつく命令の糸をも断ち切ることができると。
「……わかりました。あなたの意志は、私を害したくないということで間違いありませんね?」
「はい! もちろんです! どうか、この恐ろしい命令からお救いください!」
「リシェル・ロウの名において、あなたの依頼を受理します」
リシェルは料理人の背中――そこに絡みつく太い灰色の糸の結び目に向かって、右手をかざした。
大聖堂の祭壇で、初代聖女の遺した誓約文字を思い出す。
拒絶する力。縛るものを断ち切る、意志の刃。
「――否!」
リシェルが鋭く宣言した瞬間、パァンッ、と乾いた音がリシェルの耳の中だけで響いた。
料理人を縛っていた灰色の糸が粉々に弾け飛び、虚空に溶けて消えていく。
「あ……あぁ……っ」
料理人は両手を見つめ、自分の意志で指先が動かせることを確認すると、その場に泣き崩れた。
「ありがとうございます、聖女様……! 呪いが、解けました……」
「よかっ、た……です」
リシェルが安堵の笑みを浮かべようとした、その時だった。
グラリ、と激しいめまいが視界を横切った。
「え……?」
足の裏から力が抜け、全身の血液が沸騰したかのような凄まじい熱が噴き出してくる。立っていることができず、リシェルの身体は糸が切れた操り人形のように冷たい石の床へと崩れ落ちた。
「聖女様!? 聖女様、誰か! 誰か来てください!」
料理人の悲鳴が、ひどく遠くに聞こえる。
他人の命令を断ち切る『代理の否』。それがどれほど身体に負荷をかけるものなのか、リシェルは三回目を行って初めて思い知らされていた。
視界が暗転し、リシェルの意識は深い熱の底へと沈んでいった。
*
「極度の神経負荷による発熱です。魔法的な外傷は見当たりませんが、心身の限界を超えています」
くぐもった声が、熱に浮かされるリシェルの耳に届いた。
どこか柔らかい場所に寝かされている。額には冷たい布。
「……原因はなんだ」
低く、地を這うようなレオンハルトの声。
「おそらくは、ご自身の精神力を削って他者の命令を強制解除した反動でしょう」
侍医の声には、明確な危惧が混じっていた。
「今日だけで三回、その不可思議な力を使われたと聞いております。陛下、この力は魔法的な絶対数で制限されているわけではありませんが、身体への負荷が大きすぎます。これ以上は命に関わる。少なくとも一日三回を上限として、それ未満でも異変があれば中止を。今、四回目を重ねれば、意識が戻らなくなるおそれがあります」
「……わかった。下がれ。他の者もだ」
衣擦れの音と、扉が閉まる音がした。
静かになった部屋で、誰かがベッドの傍らの椅子に腰を下ろす気配がした。
「はぁっ、はぁっ……」
リシェルは苦しい息を吐きながら、熱に焼かれる頭で過去の夢を見ていた。
七歳の時の記憶。霧境のロウ村。
死湖から流れてきた毒の霧が、村の縁を舐めるように迫ってきていた日。
『逃げて!』
母の叫び声が聞こえる。
だが、幼いリシェルは動けなかった。大人の――村長の『待て、そこで動くな』という強い指示を、絶対の命令だと信じ込んでしまったからだ。
母を助けられなかった。幼い日のリシェルは、それをずっと自分のせいだと思っていた。
「……いや……」
リシェルの唇から、ひび割れた譫言が漏れた。
「従いたくない……。動けと、言って……お母さん……」
熱のせいで、心の奥底に封じ込めていた恐怖と後悔が溢れ出していく。
「待てなんて、言わないで……。命令、しないで……」
ベッドの傍らで見下ろしていたレオンハルトは、微かに目を見開いた。
強気で、皇帝である自分にすら一歩も引かなかった少女が、身を縮めて怯えきっている。
リシェルの目は開いていなかった。彼は枕元の水を取り替え、呼吸が乱れるたびに医師を呼んだ。
「ここは離宮だ。今、霧は来ていない」
返事を求めず、何度でも同じことを伝えた。
「ん、ぁ……」
冷たい布を当てられたリシェルが、苦しげに身じろぎをする。
恐怖に抗うように虚空を彷徨った彼女の手が、ふと、ベッドの縁に置かれていたレオンハルトの軍服の袖を弱々しく掴んだ。
ピクリ、とレオンハルトの肩が強張る。
レオンハルトは掴まれた袖を振り払うことなく、ただ黙って、彼女の呼吸が落ち着くまでその場に留まり続けた。
夜が明けるまで、彼は一度もその手を解こうとはしなかった。
*
翌朝。
窓から差し込む眩しい朝日で、リシェルは目を覚ました。
全身を覆っていた焼け付くような熱は引き、身体の怠さだけが残っている。
「……起きたか」
窓際に立っていたレオンハルトが振り返った。
彼の軍服にはわずかに皺が寄り、目元には疲労の色が濃い。夜通し、この部屋で看病していたのだとすぐにわかった。
「陛下……私、ご迷惑を」
「熱は下がった。だが、日が変われば身体も戻るわけではないそうだ。医師がいいと言うまで、力は使わないでほしい」
レオンハルトは、リシェルが夜の間に漏らした譫言について、一切触れなかった。探るような視線もなく、ただ彼女の体調だけを気遣っている。
その誠実さに胸の奥が温かくなるのを感じながら、リシェルは上体を起こした。
「休んではいられません。偽勅の被害はどうなりましたか」
「……」
レオンハルトが言い淀んだ直後、控えめなノックと共にイルザが部屋に入ってきた。
彼女の顔色はひどく蒼白だった。
「陛下。報告いたします。今朝未明から、宮廷内の複数箇所で同時に『偽勅』による異常行動が確認されました。武器庫の鍵を捨てる者、馬の鞍の留め金を外す者、食料庫に火を放とうとする者……」
イルザの声が震えている。
「現在判明しているだけで、十数名が何者かの命令に操られています」
リシェルは息を呑んだ。
侍女二人と料理人を助けただけで、リシェルは立てなくなった。十数人を、自分一人では救えない。
「皆に、私は行けないと伝えてください」
言うと、胸が痛んだ。それでも寝台から足を下ろさなかった。
「偽勅を見つけて、読ませないで。すでに読んだ人は、誰かに付き添ってもらってください」
レオンハルトは頷き、扉の外の兵を呼んだ。
誰かを見捨てる声にはならなかった。彼女が休む間の、仕事を割り振る声だった。




