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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第8話 灯は聖女たちの「否」で燃えていた

夜の帳が下りた大聖堂は、死の底のように静まり返っていた。


 昼間であればステンドグラスから光が差し込む広大な空間は深い影に沈み、ただ最奥にある『沈黙の祭壇』だけが、青白い炎の明かりに照らされている。


 人払いがなされた回廊を抜け、リシェルはレオンハルトと共に祭壇の前に立った。


「……見間違いではないのだな」


 レオンハルトの低く掠れた声が、反響して消える。


「はい。小霧の避難が成功した後、ここを通りかかった時に見えました。あの炎の中に、苦しむ人の顔のような影が」


 ただの少女の戯言だと言って笑うこともできただろう。だが、レオンハルトは彼女の言葉を一つも疑わず、皇帝の権限で夜の大聖堂を開けさせ、自ら同行した。


 リシェルはゆっくりと階段を上り、祭壇の中心で燃え盛る『誓灯』に近づいた。


 帝国の国教たる誓約教会の象徴。


 皇帝が発する『勅声』の燃料となり、決して消えることのない奇跡の炎だと教えられてきた。


 リシェルは目を細め、炎の根元を見つめた。


 同時に、祭壇の縁に刻まれた古い誓約文字が、彼女の視界の中でだけ淡く呼応する。


(違う。これはただの炎じゃない)


 リシェルの目には、青白い炎を構成しているものがはっきりと見えた。


 それは無数の『灰色の糸』だった。イルザの背中に絡みついていたのと同じ、人の動きを縛る強制力の糸。それが幾万と寄り集まり、もつれ合いながら燃え上がっているのだ。


 そして、その糸の束が燃える瞬間に、声にならない悲鳴を上げる女たちの顔が次々と浮かび上がっては消えていく。


「……ッ」


 リシェルは思わず口元を押さえ、よろめいた。


「どうした、リシェル」


 レオンハルトが咄嗟に近づき、彼女の背中を支えようと手を伸ばしかけて、空中でピタリと止める。


「陛下……。この炎の正体が、わかりました」


 リシェルの声は、自分でも驚くほど震えていた。


「ここにある文字。霧境に残っている古い言葉と同じです。『結ぶ』と『断つ』。……この炎は、過去の聖女たちが燃やされているんです」


 レオンハルトの黒い瞳が、鋭く見開かれた。


「聖女の肉体を燃やしていると?」


「いいえ、肉体ではありません。奪われているのは……『拒む力』です」


 リシェルは古字に沿って指を動かした。


「『否を断ち、灯へ結ぶ』。そう読めます。でも、誰が、いつ、この文字を加えたのかまではわかりません」


 古い線に、深さの違う文字が重なっている。


「奉献された人は、死んだと教えられました。本当にそうなのですか。その前に、何を奪われるのですか」


 答えを求めて見上げると、彼も炎を見ていた。


「……私の力が」


 レオンハルトの声が、暗い大聖堂にひどく空虚に響いた。


 レオンハルトの拳が、白くなるほど固く握りしめられる。彼の喉元にある古い傷が、痛みを訴えるように微かに引き攣った。


「私は、何も知らなかった」


「知ろうとしなかったことも、調べなければならないな」


 そう付け足しても、握った手は緩まなかった。


「陛下。私は……」


「隠すな」


 レオンハルトは、リシェルを遮って言い放った。


「これ以上、何も隠すな。この祭壇に関するすべての調査権限をお前に渡す。教会の記録庫でも、古文書でも、必要なものはすべて私の名で開示させる」


「……よろしいのですか。もしこの事実が公になれば、皇帝の命令そのものの正統性が失われます」


 それは皇帝という存在の根幹を揺るがすことだ。


 だが、レオンハルトは自嘲するように目を伏せた。


「犠牲の上に成り立つ権力など、最初から正当ではない。……私自身の力すら、私はもう信じない」


「おや。夜の祈祷にお越しとは、陛下もずいぶんと信心深くなられた」


 唐突に、回廊の奥から穏やかな声が響いた。


 現れたのは、仕立ての良い夜着の上にガウンを羽織ったヴァレリウス大公だった。彼は驚いたように目を丸くし、それから祭壇の上の二人に向かって恭しく頭を下げた。


「こんな夜更けに聖女殿と二人きりとは。邪魔をしてしまったかな」


「叔父上こそ、ここで何を」


「なに、少し胸騒ぎがしてね。誓いの神に祈りを捧げようと思ったのだよ」


 ヴァレリウスはゆっくりと階段を上り、誓灯の炎を見上げた。


「……美しい炎だ。この国の絶対の平穏を約束する光。聖女殿も、そう思われるだろう?」


 優しげな口調。


 だが、リシェルはその言葉に微かな寒気を覚えた。


 ヴァレリウスは、レオンハルトが幼い頃に摂政を務め、この帝国の実権を握っていた男だ。どこまで知っているのか。その顔からは、読み取れなかった。


 リシェルが黙って睨み返すと、ヴァレリウスの瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。


「夜も更けました。私たちはこれで失礼します」


 リシェルが短く告げると、ヴァレリウスは再び温和な笑みを浮かべて道を譲った。


*


 離宮への帰路。


 石造りの長く暗い回廊を歩く間、リシェルとレオンハルトの間に会話はなかった。


 慰めの言葉も、今後の対策を話し合う余裕もない。


 リシェルは唇を噛みしめ、前を向いた。


 ふと気づく。


 隣を歩くレオンハルトの足音が、リシェルの足音と完全に重なっていた。


 軍靴と、柔らかな室内靴。階段で遅れれば、隣の軍靴も遅くなる。気づいて顔を上げると、彼は前を向いたまま、歩幅を縮めた。


「私まで、あなたと同じ罪を背負うつもりはありません」


 リシェルが言うと、彼は足を止めた。


「そうだな。お前に背負わせてはならない」


 レオンハルトの横顔は冷たく硬かったが、その規則正しい足音だけが、リシェルに不思議なほどの安心感を与えていた。


*


 そして翌日の昼前。宮廷内で、二件目の偽勅の報告が届いた直後だった。


 リシェルが自室を出て廊下を歩いていた時のことだ。


 前方から昼食の配膳カートを押して歩いてきた初老の料理人が、リシェルの姿を認めるなり、不自然な動きでカートから手を離した。


「……あ、あ……」


 料理人は操り人形のように不格好に膝をつき、石の床に這いつくばった。


「どうしたのですか!? 大丈夫ですか!」


 リシェルが駆け寄ろうとした瞬間、料理人はひどく引き攣った顔で、涙を流しながら叫んだ。


「どうか、どうか聖女様……! 私への『命令』を、止めてください……ッ!」


 その男の背中には、イルザの時と同じ、禍々しい灰色の命令糸が絡みついていた。

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