第7話 「何が要る」と彼は聞いた
北の空が、重く淀んだ鼠色に沈んでいく。
風に混じる泥と微かな硫黄の匂い。リシェルの予報通り、五日後の昼過ぎ、北方の死湖から流れてきた有毒な『小霧』が帝都の北区へ到達した。
『ブオォォォー……!』
低く腹に響くような霧笛の音が、街のあちこちで鳴り響いている。
北区の広場や大通りには、灰色の木綿布で口と鼻を覆った何万という民衆が、高台の避難所を目指して急ぎ足で歩いていた。
リシェルは、北区から高台へと続く主要な石橋の袂に立っていた。
彼女自身も灰布の覆面をつけ、手には全体の風向きを示す旗を持っている。少し離れた背後には、同じく覆面をつけた黒い軍服姿のレオンハルトと、数名の近衛兵が控えていた。
「風速が上がっています! 霧の足が速い。南側の水門を閉じ、水路沿いの低い通風口も塞いでください!」
リシェルの指示が飛ぶと、警備隊が即座に動く。
最初は「小娘の予報など」と嘲笑っていた者たちも、実際に時間通りに霧が流れ込んできたことで、持ち場ごとの観測を彼女に届け、笛の合図を確かめながら動いていた。
だが、想定外の事態は現場で起こる。
「駄目だ! 橋の中央で荷車が横転した!」
前方の警備隊員が悲鳴のような声を上げた。
石橋の中央で、家財道具を積みすぎた車が車輪を壊して道を塞いでしまったのだ。それにより避難の列が完全に停止し、後ろから押し寄せる群衆が橋の袂でパニックを起こし始めていた。
「前へ進ませろ!」「霧が来るぞ、死にたくない!」
怒号と悲鳴が入り混じり、人々が押し合いへし合いになる。
このままでは将棋倒しによる圧死者が出るか、後方の者たちが霧に飲まれてしまう。
リシェルの背後で、レオンハルトの気配が鋭く張り詰めた。
彼が一言、皇帝の『勅声』で「整列しろ」と命じれば、群衆は強制的に動きを止め、パニックは一瞬で収まるだろう。
(駄目、今ここで命令を使えば、また十年前と同じに……!)
「陛下、声を使わないで!」
リシェルが振り返って叫ぶより早く。
「……わかっている」
レオンハルトは橋の入口へ目を向けた。警備兵の列を下げさせ、後ろから来る人を止めている。
命令は使わせない。自分の力で道を開く。
リシェルは周囲を見回し、顔役である屈強な石工の棟梁を見つけた。
「棟梁! この橋を渡り切るのを待っていたら間に合いません。迂回用に調べた東の管理道は、今も通れますか!」
「管理道? あそこは狭いが……足場は悪くない。手すりがないから大勢は危険だが」
「少しでも人を逃がす経路が必要です! 笛の合図を変えます!」
リシェルはすぐさま手元の霧笛を、短く三回、長く一回の『迂回』の合図に切り替えて吹き鳴らした。
「私が先導します。皆さんは落ち着いて、ゆっくりと東の管理道へ向かって!」
リシェルの声が、覆面越しに響く。しかし、パニックに陥りかけた群衆の足はすぐには止まらない。
その時、レオンハルトがリシェルの真横に並び立った。
「何が要る」
風の音に紛れるような、短く低い声。
「え?」
「迂回路へ安全に誘導するために、お前は何を必要としている。言え」
その手はもう、予備の綱を載せた荷車を指していた。
リシェルは迷わず答えた。
「誘導用のロープと、人の波を区切るための人員です! 五十人ずつに分けて管理道へ流さないと、押し出されて川に落ちます!」
「イルザ!」
レオンハルトの鋭い声に、近衛隊長が即座に応える。
「近衛隊を動かし、群衆を五十人ずつに分断しろ。予備の長縄を荷車から下ろし、手すりの代わりに張れ。急げ!」
「はっ!」
皇帝の威厳と、訓練された近衛兵の迅速な動き。
それが、リシェルの指示に物理的な実行力を与えていく。
リシェルが風を読み、道筋を立てる。レオンハルトがそれに必要な物資と人を瞬時に供給する。
命令という魔法を使わなくても、二人の共同作業は信じられないほどの速度と正確さで群衆を動かしていった。
(いける……これなら、全員逃げ切れる!)
爽快感に近い手応えが、リシェルの胸を満たした。
だが、その安堵が僅かな隙を生んだ。
「どいてくれ、うちの婆さんが!」
後ろから無理やり割り込もうとした大男の肩が、リシェルの身体に強くぶつかった。
「あっ――」
石畳の上で、リシェルの足がもつれる。倒れれば、そのまま群衆の波に踏み潰される。
視界が傾き、冷たい石の地面が迫った瞬間。
「危ない」
低い声と共に、強い力がリシェルの手首をガシリと掴んだ。
そのまま強引に引き寄せられ、リシェルは硬い胸板にぶつかるようにして体勢を立て直した。
見上げると、覆面の奥にあるレオンハルトの黒い瞳が、切迫した光を帯びてこちらを見下ろしていた。
「あ、ありがとうございます……」
「前を見ろ。まだ終わっていない」
ぶっきらぼうに言い捨てながらも、彼はリシェルが立ち直ると、手を緩めた。
リシェルは、離れかけた彼の手に指を伸ばした。彼が手のひらを返し、握り直してくれる。
群衆の波の中で、彼女が二度と倒れないように。その無言の保護に、リシェルは鼓動が少しだけ早まるのを感じた。手から伝わる彼の熱が、ひどく頼もしい。
やがて、全員が東の管理道と整理された橋を渡り切り、高台の避難所へ到達した。
眼下の街を、鼠色の有毒な小霧がゆっくりと覆い尽くしていく。もし避難があと十分遅れていれば、多数の犠牲者が出ていただろう。
「……死者は、ゼロです」
報告を受けたリシェルが安堵の息を吐く。
レオンハルトは小さく頷いた。
「聞こえたか、リシェル。全員、着いた」
その時になってようやく、彼はリシェルの手をそっと離した。離れた部分の肌が、高台の風に当たって不自然なほど冷たく感じられた。
*
翌日。
小霧は一晩で風に流され、帝都は落ち着きを取り戻しつつあった。
避難成功の報告を終え、大聖堂の回廊を一人で歩いていたリシェルは、ふと奥に広がる『沈黙の祭壇』に足を止めた。
あの祭壇の上で、皇帝の『勅声』の燃料として燃え続ける巨大な炎――『誓灯』。
あの炎は、歴代の聖女たちの祈りの力だと教えられてきた。
だが、リシェルはふと、その炎の揺らめきの中に、異様な影を見た気がして目を凝らした。
「……え?」
青白い炎の奥深く。
そこには、声なき悲鳴を上げ、苦痛に顔を歪めている『人の顔』のような影が無数に浮かび上がっていた。
背筋が粟立つような悪寒。
あの炎は、神聖な祈りなどではない。もっとおぞましい何かで燃えている。
炎の中の口が動いた。
声は聞こえなかった。それでも、何を言おうとしているのかはわかった。
――いやだ。




