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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第6話 霧は五日後に来る

「本日の第五刻。財務局長に対し『資料の提出を明日まで待て』と命じましたね」


「ああ。だがそれは勅声ではなく、ただの業務指示だ」


「声に僅かでも強制の響きがあれば記録します。私は監査役ですから」


 陽の差し込む広い執務室で、リシェルは羽ペンを走らせながら淡々と言い放った。


 大きなマホガニーの机を挟んで向かい側に座るレオンハルトは、呆れたように、しかしどこか口元を緩めて息を吐く。


 群衆の暴動から一夜明けた今日、リシェルは約束通り、皇帝の命令使用を監査する役目として彼の執務に同席していた。彼が誰に何を命じたか、それが適切なものであったかを見届けるためだ。


「お前は、歴代のどの元老会議員よりも厳しい監査官になりそうだな」


「私には百日しかありませんから。休んでいる暇はないのです」


 リシェルがインク壺にペンを浸した、その時だった。


 バンッ、と無作法な音を立てて執務室の分厚い扉が開かれた。


「陛下! 一大事でございます!」


 血相を変えて転がり込んできたのは、元老会の重鎮である老議員たちと、北区を管轄する警備隊の将校だった。彼らの顔は一様に青ざめ、恐怖に引き攣っている。


「どうした。騒々しい」


 レオンハルトは羽ペンを置き、皇帝としての冷ややかな顔に戻った。


「北の空に『鼠色の鱗雲』が出ました! 警備隊の報告によれば、風には微かに死湖の泥の匂いが混じっていると! 間違いありません、有毒な黒霧が流れてきます!」


 将校の報告に、リシェルの心臓が大きく跳ねた。


 黒霧。大陸北方の死湖から周期的に発生する、吸い込めば肺を焼かれる猛毒の気体。


「ただちに勅声を! 北区の住民に対し、大号令を用いて地下シェルターへの強制避難をお命じください! 間に合わなくなります!」


 老議員が机にすがりつくようにして叫ぶ。


「落ち着け。規模はどの程度だ。大霧か」


「い、いえ、観測された兆候の範囲からすると、局地的な『小霧』かと。しかし、吸い込めば死に至ることに変わりはありません! どうか今すぐご決断を!」


 執務室が恐慌状態に陥りかける中、レオンハルトの視線が、ふとリシェルへと向けられた。


 皇帝の過去の罪を知る彼女に「命令を使うべきか」と問うような、静かな視線。


 十年前、彼が民を救うために発した大号令は、風向きの変化に追いつけず二百人の命を奪った。今ここで命令を使えば、また同じ悲劇が繰り返されるかもしれない。


 リシェルは椅子から立ち上がり、将校の手から観測データの束をひったくった。


「聖女様!? 何を……」


 数値を素早く目で追い、リシェルは執務室の大きな窓へと歩み寄った。


 窓を開け放ち、北の空を見上げる。確かに遠くの空に、どんよりとした鼠色の雲が薄く広がっている。リシェルは目を閉じ、頬に当たる風の冷たさを確かめ、窓辺に届く匂いを短く嗅いだ。


(観測所の湿度は上がり始めたところ。北北東の風。上流三地点の記録も、まだ強い流入を示していない)


 故郷である霧境・ロウ村で、物心つく前から叩き込まれてきた『霧読み』の技術。自然の些細な変化から、霧の到達と規模を正確に予測する命がけの技能。


 リシェルは目を開け、振り返った。


「今すぐ避難させる必要はありません」


 将校が言い返しかけ、彼女の手にある観測記録へ目を落とした。


「記録から見ると、到達は五日後の昼過ぎです。ただし、風が変われば早まります。観測の間隔を詰め、避難はその前から始めてください」


「な、何を馬鹿な! たかが小娘の勘で……!」


「勘ではありません。風の質と雲の高さ、それらすべてが霧の速度を割り出す根拠です」


 リシェルは老議員の反論を冷たく切り捨てた。


「今、勅声でパニックを起こして数万の民を地下へ押し込めば、地下道で圧死者が出ます。それに、小霧であれば地下に潜るよりも、風の通り道から外れた高台や、密閉できる石造りの建物へ誘導する方がはるかに安全です」


「失敗すればどうなるかわかっているのか! 責任が取れるのか!」


「予報の根拠を公開します。ほかの霧読みや観測官にも確かめてもらって、違えば直します。私の命を差し出しても、避難の失敗は取り戻せません」


 リシェルはレオンハルトに向き直った。


「布で口と鼻を覆う『灰布の覆面』と、風向きの変化を知らせる『霧笛』。覆面は、薄い霧を抜けるわずかな時間を稼ぐものです。安全なのは霧の外です。濃くなる前に、動けない人から移さなければ。霧境では何百年もそうやって生きてきました」


 老議員がレオンハルトを見た。ほかの議員も、皇帝の返答を待っていた。


「話を聞こう」


 低く、重い声が執務室の空気を制圧した。


 レオンハルトは立ち上がり、ゆっくりとリシェルへ近づいた。


 彼はリシェルを見下ろし、窓から吹き込む風に髪を揺らす彼女の真剣な横顔を、ただ黙って見つめた。


「……何が要る」


 レオンハルトは、それだけを問うた。


「え?」


「その計画を実行するために、何が必要かを聞いている。物資か、人員か、それとも金か」


 彼は白紙を引き寄せ、必要なものを書き取る姿勢になった。


 リシェルの胸の奥が、熱く震えた。


 故郷のことを語れば、帝都では大抵笑われた。今は、話の続きを待つ人がいる。


「……粗めでも構いません。丈夫な木綿の布を、北区の人口分。それから、水門を閉じるための人足と、高台へ誘導する警備隊の編成権を。合図の笛は、木工職人を集めてくだされば私たちが作ります」


「わかった」


 レオンハルトは即座に振り返り、青ざめている将校と議員たちに指示を飛ばした。


「聞いたな。今すぐ帝都中の問屋から木綿を買い上げろ。費用は皇室の金庫から出す。警備隊の三個中隊を聖女の指揮下に入れ、木工職人を集めろ。すべて、今日中にだ」


「へ、陛下! 正気ですか!? 聖女の予言など信じて、もし五日より前に霧が来たら……!」


「早まる場合も考えて、準備を今日から始める。観測官を呼べ。予算と配置の責任は私が持つ」


 レオンハルトは書きかけの表を示した。


「間に合わない項目があれば、すぐ知らせろ。遅れを隠される方が困る」


 議員と将校たちは弾かれたように執務室から飛び出していった。


 静かになった部屋で、レオンハルトがリシェルへ向き直る。


「リシェル。まずは、最も早く霧が着いた場合の道を描いてくれ」


 彼は彼女が左手で紙を押さえるのを見て、インク壺を邪魔にならない側へ移した。


「……はい」


 リシェルは強く頷き、机の上の白紙を一枚引き寄せた。


 描き始めてすぐに、リシェルのペンが止まった。


 北区から高台へ渡る橋は一本しかない。荷車が一台倒れただけで、全員が足止めされる。


「もう一本、道が要ります」


 レオンハルトは、彼女と同じ地図の上へ身を乗り出した。

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