第5話 命令しない皇帝
「聖女を引きずり出せ!」
「我々をまた霧で殺す気か! 生贄を出せ!」
正門の鉄格子が鳴った。広場を埋めた数百人が、こちらへ松明を掲げている。
リシェルは階段の踊り場で足を止めた。自分を出せ、と門が鳴るたびに声が重なる。
皇宮の二階、広場を見下ろすバルコニーに通じる広間に、レオンハルトと側近たちが集まっていた。
「陛下、一刻の猶予もありません。近衛兵だけでは暴徒を押し留めきれなくなります」
宰相が窓から身を引いた。白髪の生え際に汗が浮いている。
「どうか『勅声』を。陛下の一言があれば、群衆は直ちに家に帰り、暴動は血を流さずに鎮圧できます」
だが、窓の外を見つめるレオンハルトは動かなかった。黒い軍服姿の背中は、ひどく強張っているように見える。
「……駄目だ。勅声は使わない」
「なぜですか! このままでは門が突破されます!」
「彼らの顔を見てみろ。先頭で怒りを叫んでいるのは、十年前の霧災害で家族を失った遺族たちだ」
レオンハルトの低く掠れた声に、宰相が息を呑む。
「彼らの根底にあるのは、霧への恐怖だ。それを強権で黙らせても、恐怖は消えん。ただ不信が残るだけだ」
「それでも、今は命令で鎮めるしか――」
「私が説明します」
リシェルは階段を上りきり、広間へ入った。袖についた芝を払い落とす間も惜しい。制止する近衛兵の脇を抜け、レオンハルトの横に立った。
「彼らが恐れているのは、私自身ではありません。私が奉献されなかったことで、大霧が帝都を呑み込むという『見えない不安』です。ならば、その不安を晴らせばいい」
「お前が群衆の前に出るというのか。石を投げられるぞ」
「私は霧境で育った『霧読み』です。霧のことなら、教会の司祭よりも正確に語れます」
リシェルがレオンハルトを真っ直ぐに見上げると、彼はわずかに目を細め、やがて小さく頷いた。
「……わかった。行け」
「陛下!? 聖女様を暴徒の前に晒すなど!」
宰相の制止を背で聞き流し、リシェルは重いガラス扉を押し開けてバルコニーへ出た。
夜の冷たい風が頬を打つ。
バルコニーにリシェルの姿が見えた瞬間、広場の群衆から割れんばかりの憎悪の叫びが上がった。
「出たぞ! わがままな生贄だ!」
「お前が死なないせいで、俺たちが死ぬんだ!」
言葉の刃とともに、誰かが投げた小石が空を切って飛んでくる。
リシェルが思わず目を瞑った瞬間、背後から伸びてきた黒い袖が、リシェルの顔に当たるはずだった石を無造作に弾き落とした。
「へ、陛下……」
「前を向け。お前の言葉を届かせる場所は、私が守る」
レオンハルトはリシェルの背後に立ち、彼女を庇うように見下ろしていた。
袖口に赤い染みが広がっていた。リシェルがそれを見ると、彼は傷のない方の手で、兵に盾を運ぶよう合図した。
恐怖は消えない。けれど、盾が据えられるまで待ってから、リシェルは息を吸った。
彼女はバルコニーの手すりに両手をつき、群衆に向かって大きく澄んだ声を張り上げた。
「静まりなさい! 私は霧境のロウ村で育った『霧読み』です!」
予想外の言葉に、群衆の怒号がわずかに鈍る。
「あなたたちは、すぐにでも大霧が来るという噂を信じて暴れているのでしょう。ですが、それは間違いです。今の風は南東から吹いており、湿度も低く、霧境特有の塩沼の匂いも一切混じっていません。北方の死湖から有毒な大霧が流れてくる気配は、今この瞬間、どこにもありません!」
「私が生きているせいで今夜霧が来るという、その根拠を見せてください。観測所の記録は、ここにあります。門の前で配りますから、確かめてください!」
群衆の中に、戸惑いの空気が広がる。
だが、先頭に立っていた初老の男が、血走った目で叫び返した。
「じゃあ、霧が来たらどうするんだ! 十年前……十年前も、皇帝陛下の命令に従って東門の地下道へ逃げた連中が、風向きが変わって流れ込んだ霧のせいで二百人も死んだんだ! 命令のせいで逃げ場を失って死んだ! 生贄を捧げないなら、また皇帝の命令で俺たちを殺す気か!」
リシェルは振り返り、レオンハルトを見た。
「隠さないでください。あなたの口から、彼らに答えて」
レオンハルトは逃げなかった。
彼はリシェルの横に進み出ると、バルコニーの縁に立ち、群衆を見下ろした。
その瞬間、広場は水を打ったように静まり返った。誰もが、絶対的な強制力を持つ『勅声』が下されると身構えたのだ。
だが、レオンハルトは普通の、ひどく掠れた低い声で語り始めた。
「十年前の東門での悲劇は、私の判断の誤りだ。大号令で民を地下道へ誘導した直後、想定外の風向きの変化が起きた。だが、私の命令に縛られた民は、そこから逃げ出すことができず命を落とした」
先頭の男が、掲げた腕を下ろした。後ろではまだ、帰ってこない家族の名を叫ぶ者がいた。
「私の命令は、刻一刻と変わる現場の状況には追いつけない。あの二百人の死は、絶対の力が招いた失敗だ。私は生涯、あの死を忘れない」
レオンハルトは手すりを強く握りしめていた。
リシェルはすぐ横から彼を見上げ、ふと息を呑んだ。
群衆の前で過去の罪を告白するレオンハルト。その黒い軍服の硬い襟元がわずかに緩み、彼の喉元が露わになっていた。
そこには、刃物で切り裂かれたような、あるいは内側から肉が裂けたような、痛々しい古い傷跡が残っていた。
(……傷? どうして、あんな場所に)
彼が唾を飲むと、傷の端が引きつれた。いつ負った傷なのか、今は訊けなかった。
「私はもう、お前たちを無闇に縛ることはしない」
レオンハルトの肉声が、夜の広場に静かに染み渡る。
「聖女が示した通り、今すぐ霧は来ない。帰れ。そして、本当に霧が来た時は、必ずお前たち自身が逃げられる道を用意する」
門前では、近衛が観測記録を配り始めていた。若い印刷工が一枚を高く掲げ、読めない者に読み上げる。「これで済んだと思うな」という怒鳴り声も残った。
それでも、投石は止んだ。帰る者のための道が開き、質問を続ける者には文官が応じた。
*
群衆が引き始めて一時間ほど後。
離宮の執務室に戻ったレオンハルトの前に、宰相が硬い表情で立っていた。
「陛下。ご自身の失敗を群衆の前で認めるなど、王権を揺るがす行為です。なぜ勅声で『家へ帰れ』とお命じにならなかったのですか」
「命令で記憶や不満を消すことはできない」
「陛下は、お優しすぎるのではなく、命令を使わなすぎるのです。このままでは、遠からず帝国は御しきれなくなりますぞ」
宰相は深く一礼し、机上の命令記録に視線を落としてから部屋を去っていった。
執務室に、レオンハルトとリシェルだけが残される。
彼は椅子に腰を下ろし、襟元を少し緩めた。手首には白い包帯が巻かれている。リシェルが視線を上げると、また喉の傷が見えた。
「……リシェル。お前の機転に救われた。感謝する」
「お礼など結構です。ですが、宰相閣下の言う通り、あなたは皇帝として危うすぎます」
リシェルはレオンハルトの机の前に歩み寄り、彼を真っ直ぐに見据えた。
「今日、あなたは正しい選択をしました。ですが、いざという時に、あなたが本当にその恐ろしい力を正しく制御できるのか、私にはまだわかりません」
「……どうしろと言う」
「私が、あなたを監査します」
リシェルははっきりと要求した。
「皇帝の正しさを監視し、あなたが誰にどんな命令を使ったか、すべてを記録する役目を私にください。百日の猶予の間、私があなたの傍に立つ条件です」




