第4話 偽りの勅書
薄暗い大聖堂の回廊に、二人の足音だけが等間隔に響いていた。
前を歩くのは近衛隊長のイルザ。その後ろを、リシェルが一定の距離を保ってついていく。
「……こちらの道で合っていますか?」
「ええ。離宮の東棟の裏手、古井戸のそばです。そこが一番安全ですから」
イルザは同じ調子で答えた。灰色の糸が張るたびに、右腕がわずかに跳ねる。リシェルは、その手の届くところへ近づかないよう歩いた。
(あれは、なんだろう。大聖堂の祭壇で見た古い文字の光と似ているけれど……)
確証はない。だが、イルザの動きは普段と違った。
彼女は毒入りの水を持ってきた時、毒の存在に心底驚いていた。皇帝への忠誠心も本物に見えた。それが今、あからさまに人目のない場所へリシェルを誘導しようとしている。
ここで大声を上げて逃げ出せば、イルザは即座に実力行使に出るだろう。屈強な近衛隊長から、リシェルが腕力で逃げ切れるはずがない。
正面から逃げては追いつかれる。リシェルは、回廊の曲がり角へ目をやった。
地図で見た分かれ道だ。頬へ冷たい風が当たる。向こうは屋外へ通じている。
古井戸があるのは東棟の最奥。だが、その手前には近衛兵が定期的に巡回する中庭がある。
「イルザ隊長」
リシェルは立ち止まり、わざと不安げな声を上げた。
「足が痛んで、これ以上早く歩けません。そこの回廊を抜けた方が、古井戸に近いのではないですか?」
リシェルが指差したのは、中庭へと続く開けた通路だった。
「……いえ、そちらは」
「お願いです。少しでも早く、安全な場所で休みたいのです」
イルザが中庭へ目を向けた。助けを呼びたいのは彼女も同じなのかもしれない。灰色の糸が一瞬だけ張り詰めた。
「……わかりました。では、こちらへ」
イルザが歩き出した先は、リシェルの計算通り、高い生垣に囲まれているものの、少し大きな音を立てればすぐ近くの巡回兵に聞こえる中庭だった。
足元が石畳から芝生に変わる。
その瞬間、イルザが唐突に振り返った。
彼女の手には、いつの間にか鋭い短剣が握られていた。
「聖女を……殺せ」
呪詛のように呟き、イルザが刃を振り上げる。
だが、リシェルはすでに警戒していた。素早く身を屈め、横に転がるようにして刃を躱す。
リシェルは足元の手桶を蹴り飛ばし、「中庭へ、助けて!」と叫んだ。
イルザが体勢を立て直し、再び襲いかかろうとした、その時だった。
「そこまでだ」
低く、地を這うような声が中庭に響いた。
背後の生垣から躍り出た黒い影――レオンハルトが、イルザの背後に回り込み、短剣を持つ腕を容赦なく捻り上げた。
「がっ……!」
イルザの口からくぐもった声が漏れ、短剣が芝生に落ちる。レオンハルトはそのまま彼女を地面に押さえつけた。
リシェルが倒した庭道具の音と叫びを聞き、回廊にいた彼と巡回兵が駆けつけたのだった。
「聖女を、殺さなければ……私は、命令に従う……」
地面に押さえつけられてなお、イルザは虚ろな目で呟き続けている。
「陛下! 彼女の身体が、何かに操られています!」
リシェルが叫ぶと、レオンハルトは眉をひそめ、イルザの懐を素早く探った。
引きずり出されたのは、一枚の古びた羊皮紙だった。そこには、赤黒い印泥――いや、血液で押された皇帝の『認証印』が残っている。
「……偽りの勅書(偽勅)か」
レオンハルトの声が、さらに一段低くなった。
「偽勅?」
「本来は、私の血を使い、誓印という原器で認証した書面を、名指された者が読むと効く。紙に残ったこの印影が、認証印だ。これは私が発したものではない」
「血があれば、誰でも?」
「血だけでは足りない。認証印のある古い書面か、その印を不正に複製したものが要る。ただし、複製では誓約簿への登録はできない。登録に使う原器とは別に、古い勅書も調べる必要がある」
巡回兵がイルザの刃を遠ざけた。彼女はまだ起き上がろうとしていたが、「腕を押さえて。自分では止まらない」と言えた。
「昨日の紙とは、違います。今朝、別の一枚を、読まされました。離宮の詰所で」
握ろうとする手を、もう一人の兵が支えた。リシェルはその兵に頼み、紙を渡された場所と時刻を書き取ってもらった。
「命令されても、話せるのですね」
「発話と考える自由には、勅声は届かない。忘れさせることもできん」
レオンハルトは近衛の二人にイルザを支えさせ、医師を呼ばせた。
「私自身が出したものなら解ける。偽勅は、まず記載と認証を確かめる。一日を越えては続かない。傷つけずに付き添え」
「誰に渡されたか、命じて聞き出せませんか」
「強制された答えは、裁判の証言にできない。それに、その記憶が正しいとは限らない。渡した者と、紙が通った道を調べる」
彼は証拠の紙を折らずに兵へ渡し、リシェルの方へ戻ってきた。
「……お前、わざとこの開けた場所に誘導したな。古井戸の裏手で襲われていたら、私の介入が間に合わなかったかもしれない」
「あの方が操られていることに気づいたので、少しでも兵の目につく場所へと。……でも、助かりました」
リシェルが安堵の息を吐くと、レオンハルトが近づいてきた。
彼の目が、芝のついた袖から震える膝へ移った。肩へ手が伸びてくる。
だが、その手は空中でピタリと止まった。
レオンハルトは微かに拳を握り、ゆっくりと腕を下ろす。
「……無断で触れないという約束だったな」
リシェルは、下ろされたその手を自分からつかんだ。まだ膝に力が入らない。彼は何も言わず、彼女が立ち直るのを待った。
「その、気遣ってくださるのは、ありがたいです」
リシェルが少しだけ視線を逸らして言うと、レオンハルトは微かに喉を鳴らした。
「宮廷内に、私の偽勅を使う敵がいることがわかった。お前を声に出して呼べない状況があるかもしれない」
レオンハルトは自分の胸元を、指の関節で三回、こつ、こつ、こつ、と叩いた。
「助けが必要な時、あるいは危険を知らせる時は、こうして三度叩け。壁でも、机でもいい。近くにいる者へ聞こえるように」
「三度、叩く」
リシェルも同じように、自分の腕を三度叩いてみせた。
「覚えました。声を出せない時ですね」
「ああ。イルザにも、回復したら伝える」
彼が彼女の手を離そうとした時、リシェルは指に少しだけ力を込めた。あと一呼吸だけ待ってほしかった。彼はそのまま動かなかった。
だが、その静寂は長くは続かなかった。
「陛下! 一大事です!」
回廊の方から、青ざめた近衛兵の一人が駆け込んでくる。
「どうした」
「帝都の下町で、暴動の兆しが! 十年前の霧災害の遺族たちが中心となり、『聖女が奉献を拒んだせいで大霧が来る』と……! 彼らは今、『聖女を殺せ』と叫びながら、皇宮の広場へ向かってきています!」
リシェルは血の気が引くのを感じた。
偽勅に操られたイルザの言葉と、群衆の叫びが重なる。
「私が行けば、収まりますか」
口にしてから、リシェルは自分の手がまだ皇帝の手を握っていることに気づいた。




