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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第3話 代わりの生贄を出させない

翌朝、朝食の匙を取る前に、村の子が捕まったと知らされた。


 教会の強硬派である典礼長ゼノンが、リシェルと同じ奉納の一行に加わって帝都へ来ていた、ロウ村の七歳の少女を拘束したという。「予備聖女の嫌疑」が理由だった。


「馬鹿なことを……! あの子に聖紋なんてありません。ただの言いがかりです!」


 リシェルは早足で大理石の廊下を進みながら、隣を歩く男を見上げた。


 レオンハルトの歩幅についていくと、息が切れた。彼はリシェルの足音を聞き、少し速度を落とした。


「陛下、あなたの『勅声』で、今すぐあの子を解放するよう命じてください」


「それはできない」


 彼は前を見たまま答えた。


「なぜですか! あなたにとって、たった一言の命令でしょう?」


「私が『その子供を放せ』と命じれば、奴らは今この瞬間だけは従う。だが、教会の審問という法的な体裁が残っている以上、私の目が届かなくなった瞬間に『異端』などの別の罪をでっち上げ、再びさらうだろう」


 レオンハルトは足を止め、リシェルを見下ろした。


「皇帝の命令は、人の行動を一時的に縛るだけで、事の理屈や法律までは書き換えられない。根本を潰さねば、お前の故郷はずっと人質にされるぞ」


 あの子を取り戻しても、次の子を捕まえられるかもしれない。リシェルは、廊下の先の扉を見た。


「……では、どうすれば」


「私が整えられるのは、場と証拠だけだ」


 レオンハルトは脇に抱えていた羊皮紙の束を、リシェルへ差し出した。


「ロウ村の戸籍謄本と、過去二百年分の聖紋発現記録だ。帝都に納められた控えを、昨夜から調べさせた。それから、審問の場に部外者であるお前が立ち入るための『皇帝特使』としての許可証」


「審問官に、証拠を示せ。子供は近衛が保護する」


 低く掠れた声が、リシェルの背中を押した。


*


 大聖堂の地下にある審問室は、陰鬱な空気に満ちていた。


 長机の奥に座るゼノン典礼長が、冷ややかな笑みを浮かべて見下ろしている。その視線の先には、怯えて泣きじゃくるロウ村の幼い少女がいた。


「見なさい、この薄汚れた娘を。聖女が逃亡した今、代わりとなる清らかな血が必要なのだ。この娘にはその資質がある」


「でたらめを言わないでください!」


 リシェルは重い扉を開け放ち、少女を庇うように前に立った。


「その子に聖女の資質はありません。これが証拠です!」


 リシェルはレオンハルトから受け取った書類を机に叩きつけた。


「予備聖女を拘束するには、聖紋の確認が要るはずです。奉納の一行の健康記録にも、そんな記載はありません。誰が確認したのですか」


「肌に隠されているかもしれん」


「だったら、まずこの子に説明してください」


 リシェルは少女のそばに屈んだ。衝立の向こうで、女性の療養係に確かめてもらう。その間、自分も手を握っている。それでよいかと尋ねると、少女は袖をつかんだまま頷いた。


 確認を終えた療養係は、聖紋はないと報告した。


 審問官の一人が立ち上がる。


「拘束の要件を満たさない。解放する。申し立て人は、誤認に至った経緯を後刻提出するように」


 少女がしがみついてきた。リシェルは細い背中を両腕で包んだ。


 司祭たちが書類を回し始めた。ゼノンだけは目を通さず、書記官を手招きした。


「ええ、結構。この娘が予備聖女でないことは認めましょう。……しかし、聖女リシェルよ。あなたが奉献を拒み、このような審問まで開かなければならなくなった『制度の混乱』は、すでに看過できない段階にきている」


 ゼノンは芝居がかった手つきで、書記官に記録を命じた。


「記録せよ。聖女不在により、帝都の治安と教会の秩序は著しく損なわれた。よって我々誓約教会は、百日の猶予を待たず、特別措置として『第六十日への奉献前倒し』を元老会に申し立てる、と」


「な……っ!」


 少女を抱いた腕に力が入った。聖紋がなかったことより、自分がここへ来たことを記録させている。ゼノンは書記官の紙を覗き込み、満足そうに頷いた。


 少女を村へ帰す手配を終え、審問室を出たリシェルは、薄暗い廊下で壁に手をついた。


 勝ったはずだった。村の子を、自分の身代わりにはさせなかった。


 村でも、ほかの子を連れていくと脅されたから、自分の聖紋を見せた。それを「自ら志願した」と記録された。あの時も今も、死にたいと思ったことなど一度もない。


 前倒しはまだ申立てにすぎない。それでも、六十日という数字が耳から離れなかった。


「う、ぁ……」


 恐怖と重圧が、遅れて全身にのしかかる。


 膝が震え、その場にへたり込みそうになった時だった。


 外套が差し出された。リシェルが頷くと、温かい重みが肩を包んだ。


 そばには、黒い外套を脱いだレオンハルトが立っていた。


 彼は審問室には入らず、ずっと扉の外で待っていたのだ。


「陛下、私……」


「今は、休もう」


 外套の襟がずれないように合わせると、彼は隣の壁に背を預けた。歩き出す様子はなかった。


「お前は、間違った選択はしていない」


 隣で、彼が息を吐いた。リシェルもゆっくり吐いて、壁から手を離した。


 外套の内側には、まだ彼の体温が残っていた。リシェルは襟を握り、小さく息を吐いた。


「聖女様」


 廊下の奥から、近衛隊長イルザが歩み寄ってきた。


「無事にお済みになったようですね。陛下、私は聖女様を安全な離宮へご案内いたします」


「ああ、頼む」


 レオンハルトが頷き、イルザがリシェルの傍らに立つ。


 だが、リシェルは思わず息を呑んだ。


 薄暗い廊下の中、イルザの背中に絡みつく『灰色の糸』が、昨日よりもはっきりと、太く脈打っているのが見えたのだ。


 イルザの瞳の焦点は、どこか虚ろだった。


「こちらです、聖女様。離宮へ戻る前に、確認しておかなければならない場所があるのです」


 イルザは、抑揚のない声で囁いた。


「東棟の裏手にある、使われていない古井戸へ……」

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