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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第2話 私の「いいえ」は契約になる

離宮の寝台は、腰を下ろすと身体が沈んだ。


 リシェルは端へ座り直し、両足を床につけた。着替えた絹の袖が、手の甲まで滑ってくる。祭壇で着ていた白いドレスは、もう部屋になかった。


 扉の向こうで、声がした。


「百日の猶予など無効だ!」「聖女の奉献を止めれば、誓いの神の怒りを買う!」


 靴を脱がずにいてよかった。リシェルは膝の上で手を組んだ。


 あの男は百日を約束した。けれど、ここにいる人々まで自分を生かすつもりなのかは、まだわからない。


「失礼するよ。入ってもいいかな」


 ノックがした。リシェルが返事をすると、年配の男が入ってきた。金糸を縫い込んだ袖口が、椅子の背に触れる。


「私はヴァレリウス。皇帝レオンハルトの叔父にあたる者だ。君が怯えていないか心配でね。様子を見に来たのだよ」


「……大公閣下」


「どうか楽にしてくれ。私も陛下も、君の味方だ。教会の連中が何を言おうと、陛下が一度下された決定は揺るがない。君は安心してこの離宮で過ごすといい」


 その背後で扉が閉まった。「安心して」と言われても、外の抗議はまだ聞こえる。リシェルは椅子を勧める手を引き、膝へ戻した。


「お気遣い、感謝いたします」


 リシェルが短く頭を下げた時、女性の近衛隊長が部屋に入ってきた。


 軍靴が床を鳴らす。イルザ・フォーゲルと名乗った女性は、銀の水差しとグラスを載せた盆を持っていた。


「聖女様。大聖堂での儀式後、身を清めるための水をお持ちしました。教会の者が手配したものです」


 イルザは淡々と告げ、サイドテーブルに盆を置いた。


 水面に、窓枠が映った。


 グラスに指をかけた途端、土と鉄の混ざる匂いが鼻に残った。ロウ村では、沼でこれを嗅ぐと水汲み場を変える。


「お待ちください」


 グラスに手を伸ばしかけたヴァレリウス大公を、リシェルは鋭い声で制した。


「その水は、飲んではいけません」


「なんだね? ただの清めの水だが」


「匂いがおかしいのです。かすかにですが、北方の沼地に生える『泥這草(どろはいぐさ)』の匂いがします」


「少しでも飲めば、熱が出て吐きます。息ができなくなることも。水差しにも触れないでください」


 大公の手が止まった。リシェルもグラスから指を離した。


「聖女様、教会の手配した水に毒など……」


 イルザが信じられないというように口を開いた直後。


「騒がしいな」


 重く低い声が部屋に響き、扉の奥からレオンハルトが姿を現した。


 黒い執務服の襟は、喉元まで留められていた。イルザが話すのをやめ、踵を揃える。


「陛下」


 ヴァレリウスとイルザが即座に頭を下げる。


 レオンハルトは部屋の様子を一瞥し、リシェルに視線を向けた。


「何があった」


「この清めの水に、毒草が混入されている可能性があります」


 リシェルは臆さずに皇帝の目を見返した。


「北方の泥這草に似ています。薬師に調べていただけますか」


 レオンハルトはイルザに水差しを封じさせ、宮廷の薬師を呼んだ。


 薬師は別に汲んだ水と問題の水を並べ、同じ試薬を落とした。後者だけが赤黒く濁った。


「飲めません。成分は持ち帰って確かめます」


「……馬鹿な。教会の者が、自ら毒を?」


 ヴァレリウスが驚いたように声を上げる。


「教会は百日の猶予を不服としています。私がここで病に倒れれば、『やはり聖女を祭壇から下ろした天罰だ』と主張し、奉献を前倒しする口実にできるでしょう」


 空になった手を膝で握った。祭壇を下りて、まだ数時間しか経っていない。


 レオンハルトは濁った水を見つめ、低く掠れた声で言った。


「お前がいなければ、叔父上が毒を飲んでいたかもしれんな。……よく見抜いた」


「当然のことをしたまでです。ですが、陛下」


 リシェルは姿勢を正し、レオンハルトに相対した。


「私は、ただ百日の間、怯えて隠れているつもりはありません。祭壇でいただいた猶予の約定に、条件を追加していただきたいのです」


「言ってみろ」


 大公が口を挟みかけた。レオンハルトは手で制し、リシェルの続きを待った。


「一つ、私の質問には誠実に答えること。今は答えられないなら、その理由と、いつ話せるかを教えてください。


 二つ、あなたが誰にどんな『命令』を下したか、記録に残すこと。絶対の力を隠したままでは、私はあなたを信用できません」


 リシェルは言葉を切らずに続けた。


「そして三つ。――私に、無断で触れないこと」


 イルザが息を呑んだ。誰も言葉を挟まないうちに、リシェルは三つの条件を書きつけ、皇帝の前へ置いた。


 だが、レオンハルトは怒るどころか、どこか納得したように小さく頷いた。


「……いいだろう。すべて受け入れる」


 彼は紙を読み、署名した。最後の一画を引く指に、ためらいはなかった。


「えっ」


 あまりにもあっさりとした承諾に、リシェルの方が拍子抜けしてしまった。


「値切らないのですか? 皇帝の権力に制限をかけるような条件ですよ」


「お前は、大聖堂で私の声に『否』を突きつけた。私の命令が及ばない相手に、不誠実な真似をして信頼を得られるとは思っていない」


 レオンハルトはそう言うと、毒の入ったグラスと水差しを乗せた盆に自ら手を伸ばした。


「これは証拠として調べさせる。近衛の配置も見直そう」


 彼が盆を引き寄せようとした時、リシェルも無意識に水差しを遠ざけようと手を伸ばしていた。


 ふたりの指先が、空中でわずかに触れ合う。


 熱い。


 そう感じた瞬間、レオンハルトはピクリと動きを止め、即座に手を引っ込めた。


「……すまない」


 低く、少しだけ硬い声。


「無断で触れないという約定だったな。気をつけよう」


「今のは、私も手を出しました」


 そう答えると、彼は少し困った顔をした。触れた指先だけが、まだ温かい。


「いやぁ、おっかないこった」


 村の言葉が、そのまま出てしまった。リシェルは口元を押さえた。


 レオンハルトが目を丸くし、それから――微かに口角を上げた。


「……奇妙な言葉だな」


「わ、忘れてください」


「いや、悪くない。お前が素の言葉をこぼすくらいには、少しは怯えが解けたということだ」


 彼はほんの少しだけ表情を和らげ、盆を持って立ち上がった。


「イルザ、水の手配に関わった者を洗い出せ。大公閣下も、危険ですからお下がりを」


 レオンハルトの指示に、部屋の空気が再び公的なものに引き締まる。


「承知いたしました。では聖女様、私はこれで」


 ヴァレリウス大公が優雅に一礼して退出していく。


 続いて、イルザが姿勢を正して踵を返した。


 イルザの背で、灰色の線が揺れた。


 糸だ。軍服の縫い目には沿わず、肩から腕へ絡みついている。瞬きをしても消えなかった。祭壇で見た古い文字と同じように、リシェルの目にだけ映っているらしい。


 リシェルはイルザを呼び止めようとして、やめた。


 扉を閉める彼女の指は、糸に引かれる方向へ不自然に曲がっていた。

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