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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第1話 祭壇で、皇帝は跪いた

生贄に着せる白いドレスには、逃げるための裾丈が考えられていなかった。


 リシェルは靴先に絡む布を握った。袖口はまだ濡れている。儀式の前に渡された鎮静薬を、飲むふりをして吐き出した跡だった。


 誰かに見つかれば、今度こそ無理に飲まされる。


「顔を上げなさい。聖女が怯えていては、民が不安になります」


 典礼長ゼノンが言った。リシェルの震える指には目もくれない。


 祭壇の奥には青白い灯が燃えていた。そこへ上がった聖女が、その後どうなるのか。訊くたびに、神のお側で安らぐのだと同じ答えが返ってきた。


 十九年生きてきて、まだやりたいことがある。育ての親に、一度くらい自分で稼いだ金で贈り物をしたい。故郷へ帰りたい。


 安らぎなど、いらなかった。


「皇帝陛下、御成り」


 大聖堂の扉が開いた。


 黒い軍服の男が、参列者の列の間を進んでくる。剣の柄も外套の留め金も飾り気がない。それでも誰なのか、すぐにわかった。彼を見るなり、人々が息を詰めたからだ。


 第十四代皇帝、レオンハルト・ヴァルディア。


 誰も、その声には逆らえない。


 彼は祭壇へ続く階段の手前、リシェルから数歩のところで止まった。


「頭を垂れよ」


 低い声が石壁を渡った。


 衣擦れが一斉に起こる。司祭も近衛兵も、後方の参列者も、抗う間もなく頭を下げた。杖をついた老人がよろめき、隣の女が支えようとしたまま同じ姿勢になる。


 リシェルだけが、顔を上げていた。


 下げようと思えば下げられる。足も手も動く。身体を押さえつけるようなものは、何も来なかった。


 皇帝がこちらを見た。


 逃げたい。けれど、背後は祭壇で、左右には兵がいる。


「目を閉じよ」


 今度は、確かにリシェルへ向けられた声だった。


 彼女は唇を噛んだ。まぶたは、開いたままだった。


 奉献の七日前、彼女の名は誓約簿から外されている。神へ差し出す者を、世の命令から切り離すためだと聞いた。そのせいだろうか。それとも、別の何かが起きているのか。


 皇帝にもわからないらしい。彼はわずかに目を細めた。


 足元の石に古い文字が刻まれていた。母が教えてくれた字に似ている。うつむいたら見失ってしまいそうな細い線が、淡く光った。


「薬が効いていないのか」


 ゼノンが顔を上げた。最初の命令は、頭を下げたところで終わっていた。


「聖女よ。陛下をお待たせするな。目を閉じ、御声を受け入れなさい」


 リシェルは首を振った。


「いいえ」


 声は震えたが、聞こえた。ここにいる人たちにも、自分にも。


「私は、死にたくありません」


 ゼノンの口が開いた。皇帝が片手を上げて制した。それでも典礼長は「儀式が」と言いかけ、周囲の視線を見て口をつぐんだ。


 足元の古字が、もう一度光る。リシェルの手首に熱が走った。


 皇帝は彼女の目と、手首とを見比べていた。


「私の声が、届かなかったのか。それとも――」


 そこまで言って、彼は咳き込んだ。


 口元を覆った手袋に、赤い点が落ちる。慣れた手つきで内側に握り込んだため、ほかの者は気づかなかったかもしれない。


 声を出しただけなのに、血が出るのか。


 リシェルが見ていることに気づくと、彼はその手を背へ回した。


「ここへ来ることを、自分で選んだか」


「いいえ」


「奉献を望むか」


「望みません」


 今度は迷わなかった。二度答えるうちに、自分の足で床を踏んでいる感覚が戻ってくる。


 皇帝が一歩近づいた。


 リシェルは思わず後ずさり、階段の最下段に踵をぶつけた。裾を踏む。支えを探して片手を伸ばしかけた、その前で、黒い外套が床に広がった。


 彼が片膝をついていた。


 身を引いた彼女の前に空間を残し、顔を上げている。


 見下ろされていた時にはわからなかった。目の下に薄い隈がある。まだ若い男の顔だった。


「百日の猶予を使う」


 その言葉に、ゼノンが進み出た。


「あれは儀式に疑義がある場合の審査期間です。聖女の気まぐれを認める条項では――」


「勅声を受けても目を閉じなかった。祭壇の文字も反応した。調べるべきことはある。記録せよ」


 書記のペンが、ためらいながら紙を擦り始めた。


 皇帝はそれを見届けて、リシェルへ視線を戻した。


「すぐに自由を与えるとまでは、約束できない。百日後には、教会は再開を求めるだろう」


「では、それまでに何をすればいいのですか」


「お前を燃やさずに済む方法を探す。私も探す」


 たった一人で百日を与えられたのではない。そのことを確かめるように、リシェルは彼を見た。


「見つからなかったら?」


 皇帝は簡単に答えなかった。


 だから、次の言葉だけは聞いておこうと思った。


「私を拒んでいい」


 血のついた手を隠したまま、彼は言った。


「先ほどのように。私が間違えた時にも」


 リシェルは手首の熱を押さえた。


 彼の声は低く、少し掠れていた。命令よりもずっと小さいのに、そちらの方がはっきり耳に残った。


「その約束を、紙に書いてください」


 皇帝の目が、初めて揺れた。


 やがて彼は、跪いた姿勢のまま書記を呼んだ。

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