第10話 皇帝の命令を記録する
元老会の議事堂は、怒号と困惑に包まれていた。
「本物の勅声と偽勅を見分ける手段がありません! このままでは、すべての業務が停滞しますぞ!」
議員の一人が、悲鳴のような声で叫ぶ。
議長席に座るレオンハルトは、黙ってその紛糾を見下ろしていた。彼の斜め後ろには、監査役として特別に同席を許されたリシェルが控えている。
リシェルの身体には、まだ昨日の倦怠感が残っていた。医師と相談し、今日は発言する時以外は座り、力は使わないと決めている。背後には、イルザが椅子を用意してくれていた。
「……手段は、あります」
リシェルが一歩前に出ると、議事堂の視線が一斉に彼女に集まった。
「皇帝陛下が自ら発した勅声の使用記録を、即時公開する制度を作ればいいのです」
「公開記録、だと?」
「はい。陛下がいつ、誰に、どんな目的で命令を下したか。それを『命令帳』として記録し、速やかに誰もが閲覧できるようにするのです。記載がなければ、いったん執行を止めて照会できます。偽勅か、記録漏れかを調べる道ができます」
宰相ハインリヒが顔をしかめる。
「聖女様、それではまるで陛下の行動を罪人のように監視するのと同じです。それに、命令の内容が筒抜けになれば、政治的な駆け引きなどできなくなります」
「駆け引きに勅声を使ってはいけないのです」
リシェルは毅然と返し、さらに踏み込んだ。
「新制度には以下の条文を加えます。『投票、審議、裁判の相手を勅声で従わせた場合、その手続きは自動的に無効とし、通常手続きでやり直すこと』。……違反した側の思い通りに、その場を終わらせないためです」
「なっ……! そのような皇帝の権力を縛る暴論が通るはずが――」
「私は、私の『霧予報』を公開します」
リシェルは宰相の言葉を遮った。
「北区の小霧の時のように、私だけが情報を握るのではなく、観測データをすべて記録し、公開します。外れた時の責任も私が負う。対等な条件です。……陛下、いかがですか」
リシェルが振り返ると、レオンハルトは静かに目を伏せ、それからゆっくりと頷いた。
「異論はない。私はその条文をすべて受け入れる」
「へ、陛下!」
「偽勅の混乱を収めるには、透明性を示すしかない。これより私の命令は、すべて彼女の監査を受けるものとする」
採決には反対もあった。ハインリヒは運用費を問い、数人が皇帝の同意撤回を求めた。それでも賛成が上回り、命令の目的、対象、結果の即時公開と、審議を強制した場合の無効が議決された。
書記が議決書を掲げて、初めてリシェルは息を吐いた。
*
議事堂からの帰路。
冷たい風が吹く宮廷の中庭を、リシェルはレオンハルトの少し後ろを歩いていた。
監査役としての彼女の提案を、彼は一言も値切らずに受け入れた。本当にそれでよかったのか、とリシェルが声をかけようとした時だ。
「ど、退いてくれ!」
荷車が坂を滑り落ちてきた。御者は手綱を取り落とし、傾いた御者台から飛び降り、車輪の前には、転んだ小姓がいた。
最も近い門番が、驚いて立ちすくんでいる。
「門番、その子を抱えて右へ跳べ」
レオンハルトの声が響いた。
門番は小姓を抱き上げ、石柱の陰へ転がった。直後に荷車が通り過ぎる。兵たちが空荷の車を砂山へ逸らし、馬丁が馬を押さえた。
リシェルは二人に駆け寄った。門番が自分の意志で立ち上がり、小姓に怪我がないか確かめていた。指示された動作が終わり、命令も終わったのだ。
「腕を擦りましたが、この子は無事です」
レオンハルトはその報告を聞き、同行の書記を呼んだ。
「対象は門番一名。目的は小姓の救出。擦過傷あり。今の文言をそのまま記せ」
リシェルが持続時間を書き足した。帳面の写しを、議事堂の掲示係が受け取る。さっき決まった規則の最初の記録に、皇帝は自分の名を署した。
「助かったよ」
門番が小姓の髪を撫でた。その指はまだ震えていた。
人を救う声も、人を縛る。リシェルはその震えも、余白に書き留めた。
*
その夜、執務室。
暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる中、レオンハルトは机に向かい、羽ペンを動かしていた。
真新しい革表紙の『命令帳』。そこに彼は、昼に公開した記録と原簿を照合し、救出された二人の経過を書き加えていた。
『対象:北側通路の門番一名。目的:小姓の救出。持続時間:一動作、数秒。結果:小姓に怪我なし、門番の右前腕に擦過傷。手当て済み』
書き終えた彼は、ペンを置き、その分厚い帳簿をリシェルの方へと押しやった。
「……確認してくれ」
リシェルは帳簿を受け取り、記載内容に嘘やごまかしがないことを確かめる。
そして、彼の力強い筆跡のすぐ横の欄に、『監査役』として自分のサインを書き入れた。
皇帝の行動を、生贄であるはずの自分が承認する。
不思議な感覚だった。
サインを終えて顔を上げると、レオンハルトがじっとこちらを見ていた。
昼間の威厳に満ちた顔つきとは違い、今の彼はどこか疲労を滲ませており、少しだけ髪が乱れている。
「……これで、いいか」
レオンハルトが、ふと漏らすように尋ねた。
それは勅声でも、公の場での厳しい声でもない。ひどく掠れた、彼本来の弱い声だった。
リシェルは帳簿を閉じ、真っ直ぐに彼の瞳を見返した。
「はい。門番の傷も書いてあります。明日、本人にも読んでもらいます」
「……ああ。頼む」
レオンハルトは短く応え、安堵したように微かに目元を緩めた。
彼の筆跡は整っていたが、最後の一字だけかすれていた。リシェルがインクを足すと、彼は書類ではなく彼女を見て「助かる」と言った。こんな小さな仕事の言葉が、妙に嬉しかった。
だが。
翌朝、リシェルの自室に届けられた一通の手紙が、その静かな空気を打ち破ることになる。
上質な羊皮紙に、大公家の紋章が押された封筒。
送り主は、ヴァレリウス大公。
そこには、丁寧な筆致でこう記されていた。
『親愛なる聖女殿へ。
宮廷の空気は、あなたには少し息苦しすぎるだろう。
明日の夜、私邸での小さな茶会にお招きしたい。あなたの安全な逃亡を助けるための、良い提案がある――』




