第11話 行ってほしくない、とだけ言う
上質な羊皮紙に記された流麗な文字。
送り主はヴァレリウス大公。文面には『明日の夜、私邸での小さな茶会にお招きしたい。あなたの安全な逃亡を助けるための、良い提案がある』と書かれている。
執務室の机の上にその手紙を置くと、レオンハルトの眉間に深いシワが刻まれた。
「……これを、本気で受け入れるつもりか」
「はい。明日の夜、お伺いすると返事を出します」
リシェルが即答すると、レオンハルトはギリッと微かに奥歯を噛み締める音を立てた。
「正気とは思えんな。叔父上は、私の即位当初、後見を理由に摂政として帝国の実権を握っていた男だ。彼がこの偽勅の騒動と無関係であるはずがない」
レオンハルトの低い声に、明らかな苛立ちが混じる。
「敵陣のど真ん中に、丸腰で飛び込むようなものだ。どんな罠が張られているかわからない」
「わかっています。だからこそ、行くのです」
リシェルは退かずに、レオンハルトを見返した。
「相手が何を企んでいるか探らなければ、私たちは防戦一方のままです。大公閣下は私を『利用価値のある駒』だと見ている。だからこそ、すぐに殺すようなことはしないはずです」
「頭では理解できても、万が一ということがある! 相手は偽勅を使って他人を操る連中だぞ」
レオンハルトが机に両手をつき、身を乗り出した。
その黒い瞳には、強い焦燥と、リシェルを危険な目に遭わせたくないという切迫した思いが浮かんでいた。
彼女に勅声が効かなくても、門の兵に通すなと言えば閉じ込められる。リシェルは、彼の次の言葉を待った。
しかし、レオンハルトは深く息を吸い込むと、己の衝動を押し殺すように目を閉じた。
数秒の沈黙の後。
「……行ってほしくない」
絞り出すように、彼が呟いた。
「え?」
「皇帝としてではなく、一人の男としての本音だ。お前を、あんな得体の知れない男の屋敷になど、行かせたくない」
机をついていた指が離れた。リシェルへ伸びかけ、そのまま下りる。彼女は、返事を急がずにその手を見ていた。
「……だが」
レオンハルトはゆっくりと目を開け、リシェルを真っ直ぐに見つめた。
「お前が行くと決めたのなら、私は止めない。お前の選択を縛る権利は私にはない」
彼はリシェルを自分の手の届く範囲に囲い込むのではなく、彼女の意志を尊重した。
「行くなら、イルザを私服で護衛につけろ。屋敷の中に入ることはできなくとも、門前で待機させる。一時間経って戻らなければ、強行突破して踏み込む手筈を整えておく」
「陛下……」
「退路と時間は私が用意する。……必ず、無事で戻れ」
「……はい。必ず戻ります」
リシェルは門前の待機位置を地図で確かめた。戻ったら、彼にも報せに行こうと思った。
*
翌日の夜。
リシェルは、大公家の馬車に揺られ、帝都の高級住宅街にあるヴァレリウス邸を訪れていた。
案内されたのは、美しい絵画や調度品で飾られた、こぢんまりとした上品な応接室だった。
「よく来てくれたね、聖女殿」
ヴァレリウス大公は、柔和な笑みを浮かべてリシェルを迎え入れた。
彼は自ら紅茶を淹れ、湯気の立つカップをリシェルの前に置く。
「毒など入っていないから安心してくれ。……先日の広場での説明は見事だった。君の勇気と知識には、元老会の議員たちも舌を巻いていたよ」
「恐縮です、大公閣下。ですが、私はただ事実を述べただけです」
「事実、か。だが、民衆の恐怖は事実だけでは消えない」
ヴァレリウスはゆっくりとソファに腰を下ろし、嘆くように首を振った。
「レオンハルトは若すぎる。十年前の過ちを民の前で認めるなど、王権を自ら傷つける愚行だ。それに、彼がいつあの恐ろしい命令で君を縛り付けるか、君も不安だろう?」
同情に満ちた声。
ヴァレリウスの言葉は、まるでリシェルを気遣っているかのように響く。
「私は、君のような有能な娘が生贄として消費されるのは忍びない。……どうだろう。私が信頼する商人の馬車を使い、君を隣国へ逃がす手配をしよう。資金も身分証も私が用意する。君は、こんな狂った国から逃げて、自由に生きるべきだ」
甘い誘惑。
しかしリシェルは、手の中のティーカップを見つめながら、内心で冷ややかに分析していた。
(私を逃がすのは、親切心からじゃない。皇帝に唯一逆らえる私が傍にいると、彼が皇帝を失脚させる計画の邪魔になるからだ)
「……とても、魅力的なお話です」
リシェルはわざと少し声を震わせ、怯えて迷っている少女を演じた。
「ですが、すぐに決断することは……。陛下が怖くて」
「ああ、無理もない。ゆっくり考えるといい。私はいつでも君の味方だ」
ヴァレリウスが満足げに微笑んだ時、応接室の扉が控えめにノックされた。
「失礼いたします。お茶のお代わりをお持ちしました」
入ってきたのは、初老の男性使用人だった。彼は銀のポットを持ち、静かな足取りでテーブルに近づいてくる。
リシェルは、ふと彼の方を見て、息を呑みそうになるのを必死で堪えた。
(糸が……!)
使用人の背中。そこに、ひどく濃く太い『灰色の糸』が繋がっていたのだ。
大聖堂で見たのと同じ、皇帝の『偽勅』によって行動を縛られている証。
なぜ、ただ茶を運ぶだけの使用人が命令に縛られているのか。
リシェルの視線が、使用人の手元――銀のポットを握る指先に落ちた。その手が、意志に反して動かされているように、微かに痙攣している。
糸は使用人の袖口で濃くなり、衣服に隠れた折り紙のそばで結ばれていた。大公が身じろぎした時、その懐にも同じ折り方の紙が見えた。
それだけで発行者を決めつけることはできない。だが、この家で偽勅が使われている。
リシェルは茶に口をつけず、皿へ戻した。
門前まで、あと扉が二つ。リシェルは帰りの挨拶を口にした。




