第49話 求婚を断っても、終わらない
就任後も、「あの二人が結婚したら、監査はどうなる」という声は届いた。
リシェルは質問を公開の記録へ加え、親しい者の案件から外れる規則の運用を、ほかの委員と確かめた。
数日後、公務を終えたレオンハルトを、リシェルは庭へ誘った。
「今日は、仕事の話ではありません」
隣に立つ彼の手へ、自分から指を重ねた。
「レオンハルト。恋人に戻りたいです。あの時、まだ答えられないと言ったことへの返事です」
彼は指先を見下ろした。握り返すまでに、少し間があった。
「……私も、そうしたかった」
手のひらが包まれる。リシェルが一歩寄ると、彼の頬が髪に触れた。小さく名を呼ばれ、その胸へ額を預けた。
胸を離れてからも、つないだ手はそのままにした。
それから幾度か、仕事の帰りに二人で歩いた。焼き菓子を買う日もあれば、疲れてすぐ別れる日もあった。リシェルは村へ帰る予定を話し、レオンハルトは次に会える日を訊いた。
そんな夕刻、庭の小道で、レオンハルトが足を止めた。雲の切れ間から差す夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。
「私の案件を独立した委員へ委ねる規則は、そのまま守る。結婚を理由に、仕事を曲げてほしいとは思っていない」
「仕事の約束とは別に、朝も夜もお前と過ごしたいと思っている。……私と、結婚してくれないか」
言い終えても、彼は手を差し出さなかった。庭を歩いてきた時の距離で、答えを待っていた。
リシェルは胸の奥が熱くなり、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。
好きだ。今すぐ彼の手を取り、「はい」と答えて、その温かい腕の中に飛び込みたい。
だが、リシェルは両手を前でしっかりと組み、彼の目を見つめ返した。
「……嬉しいです、レオンハルト。でも、今は、お受けできません」
レオンハルトは唇を引き結んだ。それでも、彼女の続きを待った。
「恋人として会いたい気持ちは変わりません。ただ、これから半年は、帝都での仕事と、ロウ村での生活を往復してみたいのです」
リシェルは、ずっと考えていた自分の未来の形を言葉にした。
「あなたを好きだという気持ちはあります。でも、村での生活も、ここでの仕事も、どちらも続けたい。その形を確かめる前に、結婚を決めたくありません」
彼と暮らす朝を思い浮かべると嬉しい。同じくらい、村の台所に立つ自分も捨てられなかった。
「答えは、半年後に私から改めて伝えさせてください」
彼を見たまま言うと、長く息を吐く音が聞こえた。
「……そうか」
庭の小道を、風に押された葉が横切った。彼は一度そちらへ目を向け、リシェルへ視線を戻した。
「わかった。一緒に暮らしたいとは思う。残念ではあるが、それは私が引き受けることだ。旅の日程や仕事の相談は、今まで通り続けよう」
帰り道、話が途切れることはあった。彼は無理に明るくせず、リシェルも慰めるために返事を変えなかった。
分かれ道で、彼はいつもと同じように挨拶した。
「また明日」
「はい。また明日」
*
翌朝。
執務室の前で、リシェルは少しだけ立ち止まった。
結婚を待ってほしいと伝えた翌日だ。扉を開ける手に、いつもより力が入った。
「おはようございます、レオンハルト」
机に向かっていた彼が、顔を上げる。
「おはよう、リシェル」
その顔には、昨日までと全く変わらない、穏やかで静かな笑みが浮かんでいた。
「今日は午後から、北方軍の再編についての会議がある。資料には目を通してあるか」
「はい。昨夜のうちに確認しました」
机には、温かいパンが二人分あった。
「食べてから始めよう」
レオンハルトは資料を脇へ置いた。焼き林檎の皿を差し出し、リシェルが要らないと言うと、自分の方へ戻す。
昨日の返事については、何も訊かなかった。
リシェルはパンを割った。中から湯気が上がる。
いいえと言った翌朝にも、ここで朝食を食べられる。
食べ終えてから、リシェルは卓上の彼の手に触れた。指を差し入れると、そっと握り返される。資料を開くまでの短い間、手をつないでいた。
それから、季節が巡った。
リシェルは誓約院長としての公務をこなしながら、月に一度はロウ村へ帰り、ベルタたちと過ごす二重生活を続けた。
村の観測記録を帝都へ運び、学校で使う本を帰りの荷物に入れる。鞄はいつも重かった。
村から戻る日には、離宮の窓際の椅子に膝掛けが畳んであった。レオンハルトが仕事を終えて来るまで、そこで本を読むことも増えた。
そして、半年後。
窓を開けると、暖かな風が入る季節になった。
帝国は、新しい制度の象徴である、第一回『同意の誓い』の祭日を迎えようとしていた。




