第50話 私から「はい」と言う日
大聖堂の階段は、あの日と同じように冷たかった。
リシェルは靴先で裾を確かめた。今日は自分で選んだ服で、逃げるにも、歩くにも邪魔にならない。
祭壇の奥には、新しい灯が燃えていた。
祭日に来ることを選んだ人々が、一年分ずつ持ち寄った祈りだった。命じる側にも、それを拒む側にも属する、新しい誓約を支える灯。祭壇の前には、参加する人が読む短い誓いの文が置かれていた。
参加しない人のためにも、大通りの店はいつも通り開いている。窓の外から、パン売りの声が聞こえた。
「待たせたか」
振り返ると、レオンハルトがいた。
儀礼用の上着に、少しだけ慣れない顔をしている。帝冠はもうない。彼女の前へ来て、階段を一段下り、同じ床に立った。
「いいえ。今日の確認は終わりました」
「そうか。では、何を話そう」
仕事の書類を持っていないリシェルに、彼はそう訊いた。
この半年、何度も村へ帰った。
ベルタと食卓を囲み、観測の授業を手伝い、夜には疲れて眠った。帰りたくないと思う朝もあった。帝都でも、仕事が長引けば宿舎へ戻り、一人で過ごした。
レオンハルトは手紙をくれた。返事の遅い時には、届いたかと次の公務の連絡で一度だけ訊いた。
大きく角ばった字で、細かい日常が書かれていた。
林檎を焦がしたこと。新しい書記の字が自分より読みやすいこと。窓際の椅子の脚を直したこと。
リシェルは、その椅子に自分が座っていた姿まで思い出して、村の台所で手紙を読み返した。
「あなたの好きなところを、考えてきました」
レオンハルトは目を瞬かせた。
「それは……今、聞くのか」
「はい。少しだけ」
彼女は笑った。
「私の意見に反対する時、資料を三冊も持ってくるところ。苦い薬を飲んだ後だけ、菓子を二つ取るところ。言葉を覚えたら、少し間違えていても使ってみるところ」
「それは、好きなところなのか」
「私には」
彼も、ようやく笑った。傷の残る喉から、小さく息が漏れる。
その声を、もっと近くで聞きたかった。
「あなたが変えたことも、変わらないところも見てきました。私も、村を捨てなくていいとわかりました。あなたのそばへ来るために、ほかの好きなものを全部手放す必要はないんですね」
彼は頷いた。
「なくしてほしいものなど、ない」
「ありますよ。私の書類の積み方には、文句を言うでしょう」
「崩れなければ、言わない」
リシェルはまた笑った。緊張していた肩が、少し下がった。
先月整えられた婚姻の制度は、結ぶ時も解く時も、双方の意思を尊重する。公職の監査についても、二人のために例外を作らない。その確認は、もう済んでいた。
今ここで言いたいのは、それとは別のことだった。
「レオンハルト。あなたと暮らしたいです。帰ったら今日の話をして、くだらないことで笑って、時々喧嘩もして。それでも、同じ食卓につきたい」
彼の目が揺れた。
リシェルは逃げずに見返した。
「私と、結婚してくれませんか」
返事までに、少し時間がかかった。
レオンハルトは口を開きかけ、声が出ないと知って一度閉じた。右手が祭壇の縁へ触れる。
三度、叩いた。
彼が教え、二人で使ってきた、助けを求める音。
リシェルはその手に、自分の手を重ねた。
「聞こえています。ゆっくりで、大丈夫」
彼は目を閉じて息を整え、開いた。
「……はい」
掠れた声だった。
「私も、お前と暮らしたい」
命令の響きは、どこにもなかった。けれどリシェルには、大聖堂の奥まで届いたどの声よりも、はっきり聞こえた。
彼女は一歩近づき、彼の頬へ手を添えた。
リシェルが背伸びをすると、彼は頬に添えられた手へ自分の手を重ね、身を屈めた。唇が触れる。
触れたまま、二人とも少し笑ってしまった。離れた後で、今度は彼が彼女の額へ短く口づけた。
腕が背中へ回る。リシェルは自分からその胸へ寄り、上着をつかんだ。
「私も、はいです」
顔を上げて言うと、彼は不思議そうに見た。
「半年前のお返事。今、私から」
レオンハルトは、彼女を抱く腕に少しだけ力を込めた。
足元の石は冷たいままだった。手も、頬も、触れているところは温かかった。
*
三年後、ロウ村の学校では、窓を開けて風を調べる授業が行われていた。
ベルタが黒板に記録を並べ、帝都から来た観測員たちへ、どの予報を外したか尋ねている。
「当たった時の話だけしても、役には立たないよ」
窓際の席で、子供が手を上げた。
「先生の予報も、違ったら言っていい?」
「そのために教えてるんだ」
ベルタは笑い、黒板の一行を子供に直させた。
廊下には、各地から届いた霧の記録が貼られている。その下に、リシェルが次に授業へ来る日が書かれていた。
同じ年の祭日の夕方、大聖堂の前では人々が家へ帰り始めていた。
祭壇に残る灯は小さい。誰かを燃やして大きくすることは、もうない。
片付けを終えたリシェルが階段へ出ると、レオンハルトが待っていた。公務で同じ会議に出る日はあっても、帰宅が重なる日は案外少ない。
「今夜は、私が夕食を作る」
「林檎は焦がさないでくださいね」
「三年前のことを、いつまで言う」
「今年も」
彼は苦笑して、手を差し出した。
リシェルはその手を取ってから、立ち止まった。
毎年、ここで確かめる言葉があった。
「今年も、私を選びますか」
「はい」
彼は答え、彼女を見た。
「リシェルは?」
「はい。今年も、あなたを選びます」
鐘が鳴った。誰の足も止まらず、誰も頭を垂れなかった。
二人は手をつないだまま、家へ帰った。v




