↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
50/50

第50話 私から「はい」と言う日

大聖堂の階段は、あの日と同じように冷たかった。


 リシェルは靴先で裾を確かめた。今日は自分で選んだ服で、逃げるにも、歩くにも邪魔にならない。


 祭壇の奥には、新しい灯が燃えていた。


 祭日に来ることを選んだ人々が、一年分ずつ持ち寄った祈りだった。命じる側にも、それを拒む側にも属する、新しい誓約を支える灯。祭壇の前には、参加する人が読む短い誓いの文が置かれていた。


 参加しない人のためにも、大通りの店はいつも通り開いている。窓の外から、パン売りの声が聞こえた。


「待たせたか」


 振り返ると、レオンハルトがいた。


 儀礼用の上着に、少しだけ慣れない顔をしている。帝冠はもうない。彼女の前へ来て、階段を一段下り、同じ床に立った。


「いいえ。今日の確認は終わりました」


「そうか。では、何を話そう」


 仕事の書類を持っていないリシェルに、彼はそう訊いた。


 この半年、何度も村へ帰った。


 ベルタと食卓を囲み、観測の授業を手伝い、夜には疲れて眠った。帰りたくないと思う朝もあった。帝都でも、仕事が長引けば宿舎へ戻り、一人で過ごした。


 レオンハルトは手紙をくれた。返事の遅い時には、届いたかと次の公務の連絡で一度だけ訊いた。


 大きく角ばった字で、細かい日常が書かれていた。


 林檎を焦がしたこと。新しい書記の字が自分より読みやすいこと。窓際の椅子の脚を直したこと。


 リシェルは、その椅子に自分が座っていた姿まで思い出して、村の台所で手紙を読み返した。


「あなたの好きなところを、考えてきました」


 レオンハルトは目を瞬かせた。


「それは……今、聞くのか」


「はい。少しだけ」


 彼女は笑った。


「私の意見に反対する時、資料を三冊も持ってくるところ。苦い薬を飲んだ後だけ、菓子を二つ取るところ。言葉を覚えたら、少し間違えていても使ってみるところ」


「それは、好きなところなのか」


「私には」


 彼も、ようやく笑った。傷の残る喉から、小さく息が漏れる。


 その声を、もっと近くで聞きたかった。


「あなたが変えたことも、変わらないところも見てきました。私も、村を捨てなくていいとわかりました。あなたのそばへ来るために、ほかの好きなものを全部手放す必要はないんですね」


 彼は頷いた。


「なくしてほしいものなど、ない」


「ありますよ。私の書類の積み方には、文句を言うでしょう」


「崩れなければ、言わない」


 リシェルはまた笑った。緊張していた肩が、少し下がった。


 先月整えられた婚姻の制度は、結ぶ時も解く時も、双方の意思を尊重する。公職の監査についても、二人のために例外を作らない。その確認は、もう済んでいた。


 今ここで言いたいのは、それとは別のことだった。


「レオンハルト。あなたと暮らしたいです。帰ったら今日の話をして、くだらないことで笑って、時々喧嘩もして。それでも、同じ食卓につきたい」


 彼の目が揺れた。


 リシェルは逃げずに見返した。


「私と、結婚してくれませんか」


 返事までに、少し時間がかかった。


 レオンハルトは口を開きかけ、声が出ないと知って一度閉じた。右手が祭壇の縁へ触れる。


 三度、叩いた。


 彼が教え、二人で使ってきた、助けを求める音。


 リシェルはその手に、自分の手を重ねた。


「聞こえています。ゆっくりで、大丈夫」


 彼は目を閉じて息を整え、開いた。


「……はい」


 掠れた声だった。


「私も、お前と暮らしたい」


 命令の響きは、どこにもなかった。けれどリシェルには、大聖堂の奥まで届いたどの声よりも、はっきり聞こえた。


 彼女は一歩近づき、彼の頬へ手を添えた。


 リシェルが背伸びをすると、彼は頬に添えられた手へ自分の手を重ね、身を屈めた。唇が触れる。


 触れたまま、二人とも少し笑ってしまった。離れた後で、今度は彼が彼女の額へ短く口づけた。


 腕が背中へ回る。リシェルは自分からその胸へ寄り、上着をつかんだ。


「私も、はいです」


 顔を上げて言うと、彼は不思議そうに見た。


「半年前のお返事。今、私から」


 レオンハルトは、彼女を抱く腕に少しだけ力を込めた。


 足元の石は冷たいままだった。手も、頬も、触れているところは温かかった。


*


 三年後、ロウ村の学校では、窓を開けて風を調べる授業が行われていた。


 ベルタが黒板に記録を並べ、帝都から来た観測員たちへ、どの予報を外したか尋ねている。


「当たった時の話だけしても、役には立たないよ」


 窓際の席で、子供が手を上げた。


「先生の予報も、違ったら言っていい?」


「そのために教えてるんだ」


 ベルタは笑い、黒板の一行を子供に直させた。


 廊下には、各地から届いた霧の記録が貼られている。その下に、リシェルが次に授業へ来る日が書かれていた。


 同じ年の祭日の夕方、大聖堂の前では人々が家へ帰り始めていた。


 祭壇に残る灯は小さい。誰かを燃やして大きくすることは、もうない。


 片付けを終えたリシェルが階段へ出ると、レオンハルトが待っていた。公務で同じ会議に出る日はあっても、帰宅が重なる日は案外少ない。


「今夜は、私が夕食を作る」


「林檎は焦がさないでくださいね」


「三年前のことを、いつまで言う」


「今年も」


 彼は苦笑して、手を差し出した。


 リシェルはその手を取ってから、立ち止まった。


 毎年、ここで確かめる言葉があった。


「今年も、私を選びますか」


「はい」


 彼は答え、彼女を見た。


「リシェルは?」


「はい。今年も、あなたを選びます」


 鐘が鳴った。誰の足も止まらず、誰も頭を垂れなかった。


 二人は手をつないだまま、家へ帰った。v

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。