第48話 最初の選挙
大霧が過ぎ去り、瓦礫の片付けが進む帝都に、新しい時代の幕開けを告げる鐘の音が響き渡っていた。
皇帝位の廃止。それに伴う、災害時の行政執行職『守護卿』と、その権力を監査・牽制する『誓約院』の設立。そして、その二つの役職の長を民衆自身の投票で決める「最初の選挙」の告示である。
離宮の自室で、リシェルは書きかけの手紙を見つめていた。
宛先は、ロウ村の養母ベルタ。
『村へ帰ることも考えました。大霧も過ぎ去り、生贄制度もなくなった今、私が帝都に留まる理由はもうありません』
そこまで書いて、リシェルは羽ペンを置いた。
本当に、そうだろうか。
自分とレオンハルトは、百八十年間続いた国の形を根底から壊した。絶対命令という便利な鎖を失った帝国は今、自分の足で立つための強烈な痛みに耐えている最中だ。
困った人が窓口へ来た時、皇帝の許可を待たずに応じられるようにしたい。その仕事には、まだ自分の知識を使えた。
「……ううん」
リシェルは新しい羊皮紙を引き寄せ、ペンにインクをたっぷりと含ませた。
『誓約院長に立候補します。任期は五年です。選ばれたら、地方の窓口も回りながら仕事をしたい。村へ帰る暮らしも、やめるつもりはありません』
署名して封をすると、リシェルは立候補の届出を取りに行った。
*
選挙戦が始まると、帝都の中央広場には連日、多くの市民が詰めかけた。
守護卿に立候補したのは、元皇帝であるレオンハルトだった。
演壇に立つ彼は、黒いシャツに簡素な上着という飾り気のない姿で、民衆に向かって語りかけている。
「――以上の理由から、私は東区の防潮堤の再建を最優先課題とする」
彼の声はひどく低く、掠れていた。かつて大聖堂の反響を使わなくても広場の隅々まで届いた『勅声』の威圧感は、完全に失われている。
拡声のための音響管を使っても、後ろの方の市民には聞こえづらい。そのため、レオンハルトは印刷工のトビアスに依頼して大量の政策文書を刷り、それを市民に配って回るという、泥臭く地道な方法で支持を求めていた。
命令一つで群衆をひれ伏させていた男が、今や一人の立候補者として、市民からの厳しい質問に頭を下げて答えている。
「次の質問を受けよう」
レオンハルトが言うと、最前列にいた若い商人が鋭い声を上げた。
「元皇帝陛下! あなたが守護卿になり、あそこにいる元聖女様が誓約院長になれば、結局のところ、昔と同じようにあなたたち二人が国のトップで権力を独占するだけじゃありませんか! 裏で手を結んで、また私たちを支配するつもりなんだろう!」
群衆から、同調するざわめきが起こる。
もっともな疑念だった。いくら肩書きを変えても、同じ人間が上に立てば独裁に戻るのではないかという不信感。
演壇の端で待機していたリシェルが、静かに進み出た。
レオンハルトが、リシェルへ視線を向ける。
「どう答える、リシェル」
「あなたが答えても構いませんよ、レオンハルト」
二人のやり取りに、広場がしんと静まり返った。
『陛下』でも『聖女様』でもない。公衆の面前で、二人はごく自然に、互いをただの名前で呼び捨てにしたのだ。
レオンハルトは半歩退き、音響管を彼女へ向けた。
「皆さんの懸念はもっともです」
リシェルは群衆に向き直り、はっきりとした声で説明を始めた。
「二人が互いを見張るだけでは、足りません。親しい者の案件を、一人で監査しない規則を設けました」
リシェルは、配布した規則の欄を示した。
「私とレオンハルトの利害が重なる審査では、私は判断から外れます。ほかの委員が調べ、記録を公開します。守護卿の緊急権限にも、期限と事後審査があります」
「私への判決で定められた監査も、そのまま続く」
レオンハルトが付け加えた。
「選挙で選ばれても、過去の責任が消えるわけではない。私の判断に異議を唱える窓口を、私から独立させる」
若い商人は規則を読んだ。
「その委員まで、あなたたちの友人なら?」
「委員の選び方も、公開の審議で決めます」
リシェルは答えた。拍手で質問を終わらせず、次の疑問にも答えた。
「そして」
リシェルは言葉を継いだ。
「もし私が誓約院長として彼と癒着し、不正を見逃すようなことがあれば。その時は、皆さんが『市民請願』を起こして、私を解任してください。私の監査をするのは、皆さん自身です」
互いが互いを牽制し、最終的には市民がそれを見張る。
誤った判断をしない保証はない。誤りを指摘された時に、止め、調べ、責任を問えるようにする。
演壇の上で、リシェルとレオンハルトは視線を交わした。
彼が紙を一枚めくり損ねたので、リシェルは端を押さえた。小さく礼を言われる。その声が自分にだけ聞こえたことを、嬉しいと思った。
*
各州での準備と選挙運動を経て、数週間後。
誓約簿への登録の有無にかかわらず、有権者は投票所へ行った。紙に書いた票を、立会人が数えた。
結果は、圧勝ではなかった。ほかの候補を支持する者も、二人の過去を理由に反対する者もおり、票は割れた。
それでも、過半数の市民は、過去の罪を認めて権力を捨てた男と、自らの声で未来を選び取ろうとする少女を、新しい国のリーダーとして信任した。
守護卿、レオンハルト・ヴァルディア。
誓約院長、リシェル・ロウ。
二人は別々の就任書へ署名した。是の鍵を預かる守護卿となっても、レオンハルト自身の勅声が戻ることはない。彼の指示はこれからも文書と伝令で届ける。文書を読んでも、命令の糸が身体を縛ることはない。異議は窓口で受け付け、誓約院に執行の停止を求められる。喉を休ませながら、彼は自分で誓いの言葉を読み終えた。
隣の席で聞いていたリシェルは、最後の一言に小さく頷いた。
政治の舞台での決着はついた。
だが、二人の間には、まだ最後の一つの『保留』が残されていた。




