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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第45話 命令のない大霧

帝都を囲む高い城壁の向こう側から、空を黒く塗り潰すような巨大な影が迫っていた。


 死湖から溢れ出した、本物の『大霧』。


 予報より五日も早い到達に、街は一瞬にしてパニックに陥りかけた。だが、その悲鳴を断ち切るように、帝都の東西南北から低く力強い『霧笛』の音が連鎖して鳴り響いた。


「風速上昇、霧の壁の到達まであと十分! 各街区の責任者に、第三退避路への移動開始を伝達してください!」


 大聖堂のそばに設けた臨時の連絡所で、リシェルは広げた地図の上に木駒を走らせながら指示を飛ばしていた。


 皇帝の『大号令』はない。誰も強制的に足を動かしてはくれない。


 だが、トビアスたちが徹夜で配備した灰布の覆面を口元に巻き、市民たちは笛の音を頼りに、事前に共有された避難路を自らの足で歩き始めていた。


「聖女様、東区の代表から伝令です! 運河を伝って霧が想定より早く流れ込んでいます。このままでは、低地が沈みます!」


「風向きが変わりましたね……水門を閉じましょう」


 リシェルは即座に判断した。


「ですが、第二水門を閉じれば、隣接する倉庫街に水と霧が逆流します!」


「倉庫の備蓄は諦めます。人の命が優先です。東区と南区の代表に、水門閉鎖の合意を取ってください。事前の手順通り、倉庫街の退避が済んでいるか確かめてください」


 数分後、「両区の代表、水門閉鎖に同意!」という報告が飛び込んでくる。


 リシェルは深く頷き、水門操作の指示を出した。


 倉庫街の無人確認が届き、操作責任者が水門を閉じた。低い水路からの流入は弱まったが、失われた備蓄は多かった。担当者が損失を記録し、次の避難路の確認へ戻った。


 一方、避難の最前線となる大通りでは。


「急げ! 荷物は捨てろ、命だけを持っていけ!」


 イルザ率いる近衛兵たちが、声を枯らして市民を誘導していた。


 地下へ続く道の前で、イルザは足を止めた。十年前にも、ここへ列を向けた。今日は、入口を閉じる杭を自分で打ち、坂の上を指した。


「道を変えます。ついてきてください!」


 その混み合う人の波の中で、荷車が横転し、足の不自由な老人がその下敷きになってしまった。


「お爺さん!」


 群衆が怯んで立ち止まった時、一人の背の高い男が人波を掻き分けて飛び出してきた。


 レオンハルトは脇の木材を運び、兵と二人で荷車の下へ差し込んだ。持ち上げるのは、力の残る兵に任せる。


「今だ」


 掠れた声を、近くの者が繰り返した。老人が引き出され、担架へ移される。


 レオンハルトは膝に手をつき、医師に止められた通り、一度休んだ。息が戻ると、覆面の箱を近くの配布台へ運んだ。


 大声の出ない彼の役目は、指揮者の代わりになることではなかった。道を譲り、物を運び、聞こえなかった伝言は紙へ書いて渡す。周囲の者が次の仕事を指さすと、彼は頷いて動いた。


*


 第一波の強烈な霧が通り過ぎ、風向きが北へ抜けたことで、帝都は最悪の壊滅を免れた。


 連絡所の裏手。冷たい風が吹き抜ける路地裏で、リシェルは石壁に背を預け、ずるずると座り込んだ。


 極度の緊張が解け、全身の筋肉が震えている。


 そこへ、重い足音を立ててレオンハルトが歩いてきた。


 彼もまた、壁際に腰を下ろし、リシェルの隣に並んで座った。


 お互いに顔を見合わせ、ふと、力が抜けたように口元を綻ばせた。


「……ひどい顔ですね」


 リシェルが言う通り、レオンハルトの顔は煤と泥で真っ黒に汚れ、黒いシャツもあちこちが破れていた。頬の泥が乾いてひび割れていた。


「お前もな」


 レオンハルトが掠れた声で返し、リシェルの頬を指差す。リシェルもまた、煤で顔を汚し、髪は乱れ放題だった。


 レオンハルトは腰に下げていた水筒を外し、蓋を開けてリシェルに差し出した。


「水だ。まだある」


「いただきます」


 リシェルは遠慮なくそれを受け取り、乾ききった喉に冷たい水を流し込んだ。


 半分ほど飲んでから、彼に水筒を返す。レオンハルトは口を拭うこともせず、同じ飲み口から残りの水を飲み干した。


 並んで座った二人の肩が、自然な成り行きでそっと触れ合う。


 離れようと思えば離れられる距離。


 だが、二人はどちらも身じろぎせず、その温かな重みを分かち合っていた。


 リシェルは目を閉じた。彼の肩も、同じくらい疲れて下がっている。ほんの少し体重を預けると、彼が姿勢を直し、支えてくれた。


 だが、現実の戦いはまだ完全に終わったわけではない。


「聖女様、陛下!」


 連絡所の裏口から、イルザが分厚い報告書の束を持って駆け出してきた。その顔は、安堵よりも苦渋に満ちている。


「被害状況の集計が出ました。……帝都の大半の住民について、避難先での無事が確認できました。未確認の方の照合は続いています」


 そこまで言って、イルザは痛ましげに目を伏せた。


「しかし……誘導の遅れや、パニックによる転倒事故、逃げ遅れにより……死者が十二名。重軽傷者は数百名に上ります」


 リシェルとレオンハルトの間に、重い沈黙が落ちた。


 十二人の命が、失われた。


 どの命令なら救えたのか、今ここで確かめることはできない。確かなのは、帰れなかった人が十二人いることだった。


「場所を、教えてください」


 リシェルは報告を受け取った。


 東の路地では笛が届くまでに遅れが出た。歩けない住民の名簿が古く、迎えの順を誤った家もあった。


「この記録は、遺族にも読める形にします。判断した時刻も、私の指示も残してください」


 声が詰まった。レオンハルトは続きを代わりに言わず、彼女の手から落ちかけた紙を支えた。


 リシェルは十二人の名を読み、まだ見つからない人の照会へ戻った。

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