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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第44話 国中が「否」と言う

日付が変わる鐘が、遠くで鳴り終えた。


 祭壇の古字は、まだ光っていなかった。


 リシェルはその前に立ち、開かれた出口を見た。控室から外へ続く通路は警備隊が確保している。外廊で偽勅を受けた衛兵とは、別の道だった。


 立会人の周囲から、武器を持つ兵を下げる。退室した者には護衛をつけるが、引き留めない。その説明を終えてから、オルドリックが条文を読み始めた。


 新たな誓約では、誰もが個々の命令を拒める。


 誓約簿への登録は、本人が自分の声で選ぶ。古い登録を自動で移すことはせず、沈黙する者は登録しない。登録しないことを理由に、市民の権利も救援も奪わない。


 世襲の皇帝が持っていた是の鍵は、選挙で選ぶ任期五年の守護卿へ移す。命令を発する権限を預けるのであって、失った勅声を授け直す鍵ではない。力を持つ者が就いても、個人の「否」を越すことはできず、誓約院も緊急命令を停止できる。灯を満たす祈りへの参加も、毎年選び直す。


「ここにいる議員は、四十二名です」


 議会の書記が名簿を掲げた。


「ただし、必要数は出席者の三分の二ではありません。全定数六十の三分の二、四十名です」


 大司教は続けた。


「一人ずつ名を呼びます。可、あるいは否とお答えください。理由は問いません。沈黙は否として扱います。途中で意思を変えた場合も申し出てください。四十名を下回れば中止します」


 教会の証言も、撤回されれば条件を欠く。オルドリックは自分の証言が公開記録と相違ないことを確認し、再度署名した。


 最初の議員が、可と答えた。


 二人目も、三人目も。


 リシェルは声の数を、書記と別に数えた。


 十一人目の男が、名を呼ばれて立ち上がる。


「否」


 室内が静かになった。


「命令を拒める軍では、国境を守れない。私は、まだ納得していない」


 誰かが反論しようとした。オルドリックが手で制する。


「否、一名。理由の説明は、ここでは必要ありません。残ることも退出することもできます」


 男は椅子へ戻った。彼を囲む者はいなかった。


 リシェルは、握っていた指を開いた。


 三十六人目の女は、答えなかった。


 書記がもう一度だけ、聞こえたかを確かめた。女は頷き、それでも声を出さず、出口へ歩いた。


 レオンハルトが通路の脇へ退く。


 女は彼を見たが、彼は説得も呼び止めもしなかった。戸口の案内人が外へ送り出し、扉は再び開いたままになった。


「沈黙による否、一名」


 書記が記した。


 最後の名が呼ばれた。


「可」


 数え直しても、賛成は四十だった。明確な拒否一名、沈黙一名。欠席十八名は、最初から賛成に数えていない。


 余裕は一票もない。


「この内容で、今から結び直します。意思を変えた方はいますか」


 大司教は待った。誰も答えを急かさなかった。


 やがて彼は、記録官二人の確認を受け、条件が満たされたと告げた。


 その時初めて、リシェルは祭壇へ手を置いた。


 古字の窪みが、指の腹に冷たい。


「私は、一人だけが命令を止める鍵を手放します」


 レオンハルトが、向かい側に手を置く。


「私は、世襲の皇帝としての是の鍵を手放す。新たに選ばれる守護卿へ、誓約に従って移す」


 帝冠を外し、石の上へ置いた。空いた手は、彼女へ伸びなかった。


 古字が光った。


 炎の中を縒り合っていた灰色の糸がほどけ、リシェルの手首から熱が抜けていく。胸元の聖紋も、指で触れてわからなくなるほど薄れていった。


 誓灯が最後の力を使って燃え上がる。


 レオンハルトの喉から、息の詰まる音がした。膝が折れかけ、彼は祭壇の縁をつかんだ。医師がそばへ来る。リシェルは儀式の言葉を、最後まで読み終えた。


 拒否する力が一人の聖女から皆へ渡った。旧い灯はまだ燃え、すでに発せられた命令の糸も残っている。


 外廊から、声が上がった。


「否」


 命令を受けた衛兵の一人だった。押さえつけられた腕で、剣をこちらへ向けまいと抗っている。


「斬らない。俺は、斬らない!」


 その声とともに糸が切れた。


 別の衛兵が剣を落とす。三人目は膝をつき、自分の両手を見た。


 リシェルには、もう糸が見えなくなっていた。けれど、誰も彼女に切ってくれとは頼まなかった。


 彼ら自身の声で、止まった。


 新しい簿には、古い名前が勝手に移されることはなかった。


 登録を望む者は、本人の声で選び直す。各地の窓口でも同じ手続きが始まるよう、改誓の成立が伝令と笛で伝えられていく。


 今この夜、遠い街のどこかで、命令へ初めて否と言った者がいるだろう。ここから聞こえるのは外廊の数人の声だけだったが、それで十分だった。


 旧い誓灯は消えた。


 控室から連れ出された大公が、衛兵へ怒鳴った。


「何をしている。私に従え!」


 彼の声に、もともと皇帝の力はなかった。偽勅を用いる旧い仕組みも、今は失われている。


 衛兵は大公を見た。


「従いません」


 近衛がその脇を通り、拘束した大公を連れていった。


*


 レオンハルトは祭壇の下へ座らされた。


 医師が喉を診る間、リシェルはそばに屈んだ。彼が何か言おうとしたので、首を振る。


「今は、話さなくていいです」


 彼は頷いた。


 差し出した手を見て、彼がもう一度頷く。リシェルは冷えた頬へ手を添えた。指を離す時、彼は追わなかった。


「声まで、なくなったのではありませんよね」


 医師へ尋ねると、しばらく喉を休めるようにと言われた。失われたのは勅声であり、傷ついた肉声まで消えたわけではない。


 レオンハルトの唇が動く。


「……リシェル」


 ほとんど息だけの、掠れた声だった。


 彼女は聞き取れたことを示して、頷いた。


 扉の外で、霧笛が鳴った。


 この日のために覚えた合図。リシェルは顔を上げた。


「北の観測所からです!」


 伝令が濡れた報告書を差し出す。


「大霧の先端が城壁へ接近。到達は予測より五日早い。北区では、避難を始めています」


 第九十日。


 リシェルは包帯の上から手を握り、立ち上がった。

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