第43話 一言で勝てる夜
祭壇へ続く正面の階段は、大公の私兵が押さえていた。
窓の内側で剣が光る。前へ出れば、こちらの姿だけがよく見える配置だった。
「大公一人へ、止まれと命じられませんか」
警備隊の副官が言った。
レオンハルトは首を振った。
「ここからでは声が届かない。あの祭壇域まで上がれば届くだろう。だが、そこで発した勅声は、一人に向けても大号令の分を使う」
最後の一回を使えば、改誓に必要な灯がなくなる。
リシェルは、兵の作った見取り図へ目を落とした。
大公邸へ入った別隊は、血液の容器と認証済みの白紙を押収していた。ただし保管記録に比べ、数枚足りない。すでに持ち出された偽勅がある。
「大公を止めても、外へ渡した命令まで終わるとは限りません」
リシェルが言うと、イルザは頷いた。
「議会の命を受けた警備隊が、南側へ到着しました。こちらの隊と合わせれば、二方向から入れます。ただ、正面には近づかせないようにしないと」
トビアスが霧笛を握った。
「住民には、退避の合図を出す」
「はい。広場には集めないでください。建物の中から出ない人にも、伝えて」
リシェルは答えた。
議会の決議と捜索令状の写しは、安全な街区の掲示所へ配る。大公の私兵にも、伝令が降伏の条件を読み上げた。一般の市民がその前へ出る必要はなかった。
レオンハルトは祭壇を見ていた。
あそこへ立てば、一言でこの場の剣を捨てさせられる。若い兵を危険な入口へ進ませずに済むかもしれない。
それでも彼は、作戦の指揮官であるイルザへ向き直った。
「私は改誓に残す一回を、ここでは使わない。入る順と退く条件は、現場の判断に従う」
リシェルへ同意を迫る目を向けなかった。
「私が先へ出て邪魔をしたら、止めてくれ」
イルザが短く頷いた。
側面の扉に動きがあった。
正規の警備隊が門を押さえ、私兵の一部が剣を置く。残った者が後退したところへ、近衛が入った。怒鳴り声と剣のぶつかる音が、石壁を伝った。
リシェルたちは水路脇の通路から、祭壇裏の控室へ入る。
足が止まりかけるたび、彼女は自分で息を整えた。レオンハルトは手を引いて急がせず、医師から受け取った包帯が緩んでいないかだけを見た。
「リシェル」
彼が呼んだ。
「休むなら、ここで待てる」
「行きます。私の手を置く場所まで」
彼は頷き、先行する兵の合図を待った。
*
大公は祭壇の前にいた。手には、小瓶と折り畳んだ紙がある。
「遅かったな」
彼は紙を広げた。
「外廊の衛兵には、すでに読ませた。私の許可なしに来る者を止め、武装していれば斬れとな」
レオンハルトの古い血と、持ち出された認証印の複製。声の届かない場所で使う、あの書面命令だった。
外廊で再び争う音がした。偽勅に縛られた衛兵が、近づいた警備隊へ剣を向けている。
「残りはここで――」
大公が次の紙へ手を伸ばしたところで、イルザが踏み込んだ。紙を持つ手を押さえ、もう一人の近衛が小瓶を奪う。リシェルは机から落ちかけた書面を、布越しに受け止めた。
大公は床へ押さえつけられた。それでも、外廊の衛兵は止まらない。
「通路を分けろ。傷つけずに押し留める!」
イルザが声を飛ばす。厚い扉が閉められ、外の近衛が盾を並べた。大公と私兵の指揮官は、祭壇から離れた控室へ移された。
誓灯の炎が揺れた。
記録係が目盛りを読み、かろうじて声を出した。
「小命令の余裕が、ほぼ尽きました。改誓一回分は残っています」
控室へ、オルドリックと議員たちが入ってきた。
翌朝の儀式に備えて議会の建物に待機していた立会人を、警備隊が安全を確かめた通路から連れてきたのだ。
「今、始められますか」
リシェルが訊いた。
大司教は名簿を開いた。
「条文の確認と、改めての意思表示からだ。人数が足りなければ、始められない」
リシェルは頷いた。
扉の向こうには、まだ誰かを傷つけろと命じられた人たちがいる。だからこそ、その扉の内側で、同意を省くことはできなかった。




