第42話 自分で逃げる
兵が腕をつかもうと屈んだ時、リシェルは濡れた袖をその顔へ押しつけた。
「何を――」
振り払う手の下をくぐり、香炉を蹴る。灰が舞い、もう一人が顔を覆った。
薬が相手を倒してくれるとは思わなかった。視界が塞がった、その数秒だけが欲しかった。
壁へ走り、点検口の木蓋を引いた。留め具は錆びていたが、外れない。背後で剣が抜かれる音がした。
リシェルは蓋の隙間に担架の細い横木を差し込み、身体ごと体重をかけた。
木が割れた。
袖をつかまれる前に、狭い穴へ身を滑らせる。肘が石に擦れ、息が詰まった。それでも後ろへ戻らず、膝で床を押した。
点検口の先は、水路へ下る細い通路だった。手首の痛みをこらえ、壁へ手を当てて進む。風は前から来ている。
追ってきた兵が点検口を広げようと、木を蹴る音がした。
通路の曲がり角で、リシェルは一度立ち止まった。口の中が苦い。足が重くなるのが、薬なのか恐怖なのかはわからなかった。
水音のする方へ進む。やがて、外の雨に濡れた鉄格子へ突き当たった。
石を拾い、格子を叩いた。
三度。
間を置いて、もう三度。
レオンハルトが教え、イルザにも共有した合図。声を出せない時にも使えるように、と決めた音だった。
返事はない。
もう一度叩いた。石を握る手から血が滲んでも、離さなかった。
*
大聖堂の外周では、捜索隊が二手に分かれていた。
リシェルの落とした手袋が見つかり、連れ込まれた通路もわかった。だが、内部には教会兵が残り、大公の私兵まで近づいている。
レオンハルトは監査委員の許可を受け、内側の間取りを伝えるために同行していた。
「三回の打音です」
水路の側へ回った兵が報せた。
彼はすぐにイルザを見た。
「北の排出口なら、内側に通れる点検路がある。工兵を呼んでくれ」
声だけで建物全体を止められるわけではない。見えない地下の誰に何を命じればよいかもわからない。祭壇へ上がって大号令を使えば、最後の燃料を失う。
イルザは工兵を水路へ回し、別隊を追っ手の出てくる扉へ向かわせた。
「出口へ担架と医師を」
レオンハルトはそう頼んで、自分も縄の運搬に加わった。
*
格子の外で音がした。
「聖女様、離れてください!」
イルザの声だった。
リシェルは壁際へ身を寄せた。追っ手の足音が近づいてくる。外から鉄を打つ音が、それを上回った。
格子が傾き、雨が顔にかかった。
差し出された手へ、自分の手を伸ばす。肩が穴を抜けた時、痛くて声が出た。イルザが身体を支え、二人の兵が両側から引き上げた。
「出られた……」
地面へ足をついても、膝が言うことをきかなかった。
レオンハルトが少し離れたところにいた。リシェルはその袖へ手を伸ばした。うまく言葉が出ないまま、布を握る。
彼は近くの兵から外套を受け取り、広げた。
リシェルは頷いた。
背中に重みが落ちる。彼の腕は、それ以上回ってこなかった。
「薬を……少し、飲んだかもしれません」
「医師が来ている。ここで診てもらおう」
彼女が袖を離すまで、彼は待った。座る時は、イルザにも腕を借りた。
医師の問いに答えるうち、震えが少しずつおさまった。
自分で牢を出た。出口では皆が助けてくれた。どちらも、同じくらい確かなことだった。
リシェルは外套の前を握り、「ありがとう」と言った。
レオンハルトは頷いた。彼女を抱き寄せる代わりに、医師の手元を照らす灯を持った。
頭上で、激しく鐘が鳴り始めた。
見張りから戻ったトビアスが、息を切らして告げる。
「大公の私兵が入った。教会の兵も取り押さえられている。今すぐ戴冠すると、触れを出している!」
リシェルは大聖堂を見上げた。
まだ、あの灯が残っている。




