第41話 壊した印が私を救う
大公邸の捜索令状が出たのは、夜になってからだった。
ユリアンの見取り図と、マリエラが伝えた搬入口。血液保管庫の出納記録とも一致した。イルザの隊が捜索に入り、リシェルは少し離れた詰所で、押収書面の確認に当たる予定だった。
「ここからは兵が先に進みます」
イルザが言った直後、路地の奥で馬が暴れた。
倒された荷車が道を塞ぎ、教会の兵が角から飛び出してくる。
「聖女様を詰所へ!」
護衛の声を聞いた時には、背後の扉が開いていた。リシェルは腕を引かれ、口を布で塞がれた。もがいた拍子に壁へ肩を打ちつけ、視界が白くなる。
廊下へ引きずられながら、手袋を一つ落とした。
トビアスの呼ぶ声が、扉の向こうへ遠ざかった。
*
目を開けると、石の床が頬に触れていた。
高い位置に細い明かり取りがあり、壁の下から水音がする。大聖堂の地下だろうか。鐘の振動が、床へ伝わってきた。
「起きたか」
格子の向こうにゼノンがいた。
「奉献は停止されています。あなたに、私を連れてくる権限はありません」
「大公も大司教も、私を捨てた。だが、灯を満たせるのは私だ。満ちた灯を見れば、民はどちらが正しいかわかる」
彼の袖は裂け、片方の靴に泥が固まっていた。リシェルは顔より先に、彼が持っている鍵を見た。
「お前を登録して、歩かせるだけで済んだはずなのに」
ゼノンは神官兵へ怒鳴った。
「再登録の原器は、本当に一つも残っていないのか」
「議場で破棄されたものが最後です。旧い勅書用の印では、登録はできません」
「余計なことを……」
ゼノンが吐き捨てる。
リシェルは、槌の下で割れた誓印を思い出した。
あれが残っていれば、名を簿へ戻され、祭壇まで歩く命令を受けていたかもしれない。供出の直前にまた除籍すれば、祭儀の準備は整ってしまう。
その近道が、今は使えない。
「祭壇へ運ぶには、人手が要る。鎮静薬も持ってこい」
ゼノンが言った。
誓印が壊れても、別系統の奉献儀式そのものが消えたわけではない。力で運び、薬で抵抗を弱め、儀式を押し通すつもりだ。
それでも、準備には時間がかかる。
リシェルはその間に、壁と床を目で辿った。水音は左下。空気も、そこから少しずつ流れている。
彼が権力を手放したことは、言葉だけではなかった。
その事実と、今も彼を怖いと思う気持ちは、胸の中に一緒にあった。どちらかを消さなくてもよい。今は、この時間を使って逃げる。
しばらくして薬が運ばれた。
杯からする匂いに覚えがあった。最初の奉献の前に飲まされそうになった薬と同じ、甘い香りの下の苦さ。
どのくらい効くかは、わからない。飲めば動けなくなるかもしれないことだけはわかった。
兵に顎をつかまれ、杯を当てられた。リシェルはむせ、口元を袖へ押しつけた。液体が布へ染みる。少しは飲んでしまったかもしれない。舌に残る苦さが怖かった。
逃げるなら、今しかない。
彼女は身体の力を抜いた。
「早く運べ。上の祭具を確認してくる」
ゼノンが去る。兵の一人が扉を開け、もう一人が担架を入れた。
リシェルは半分閉じた目で、足元の香炉を見た。その先に、壁の低い点検口がある。
鍵の音が止んだ。
担架へ持ち上げられる前に、彼女は息を吸った。




