第39話 白百合は敵側へ
深夜の帝都に、焦げ臭い煙が立ち込めていた。
第三街区の裏通りにある石造りの倉庫から、赤い炎が上がり、周囲の住民たちがバケツリレーで必死の消火活動に当たっている。
知らせを受けて駆けつけたリシェルとトビアスが見たのは、完全に焼け落ちた倉庫の扉と、灰となって崩れ去った大量の木綿布の山だった。
「……クソッ! 覆面の予備が、全部やられた!」
トビアスが煤だらけの拳を石壁に叩きつけた。
「昨日搬入したばかりの霧笛も、あらかた壊されています。……ただの火事ではありません。倉庫の裏手に、油を撒いた痕跡がありました」
周囲を警戒していたイルザが、忌々しげに報告する。
「この第三倉庫に昨日物資を移したことは、極秘だったはずです。情報を知っていたのは、私たちと、各街区の責任者、それから……」
リシェルの脳裏に、昨日工房を訪れ、激しい怒りと共に去っていった女性の顔が過った。
旧聖女支援組織『白百合の家』のマリエラ。
「マリエラに、倉庫の場所を教えた者はいるか」
トビアスが訊いた。担当の一人が手を上げる。療養所の予備を融通する相談で、配置表を見せたという。
「大公に渡したんじゃないのか。今すぐ連れてきて――」
「まず、見たことを記録しましょう」
リシェルは言った。声が震えているのが、自分でもわかった。
「疑いは調べます。関わったなら責任も問います。でも、この場で犯人と決めて、療養所へ押しかけることはできません」
イルザが頷き、焼け跡の保全と事情聴取を司法官へ引き継いだ。
リシェルはマリエラにも話を聞きたいと使いを出したが、返事はなかった。
焦げた布を持ち上げると、指に灰がついた。療養所の患者の分も、ここにあった。マリエラが何を求めていたとしても、それでこの損失を軽くすることはできなかった。
「アデル様に許可された以外の言葉も、報復のために使いません。捜査に必要な資料は、公開の範囲と分けて扱ってください」
「焼け残った物資の確認と、他の倉庫の警備強化を急ぎましょう。失った分は、私が必ずなんとかします」
トビアスは残った布を数え直した。東の倉庫から融通できる分を引き、足りない街区を地図に記す。リシェルも隣にしゃがみ、灰のついていない袋をより分けた。
*
その日の深夜。
北塔の薄暗い牢室で、レオンハルトはリシェルからの密書を読んでいた。
倉庫が焼かれたこと。マリエラが大公側に通じた可能性が高いこと。そして、捜査を司法官へ託し、アデルの公開許可の範囲も守ると決めたこと。
淡々とした報告の文面から、レオンハルトは彼女がどれほどの怒りと喪失感を堪えてこの手紙を書いたのかを、痛いほどに感じ取っていた。
レオンハルトは物資表を開いた。北の予備をどこまで回せるか、現場へ確かめる必要がある。独断で配分を変えず、担当者の名と在庫の記録を添えることにした。
容疑者を決めつける言葉は、返信に書かなかった。
レオンハルトは、彼女に『こうしろ』という指示や正解を書き送ることはしなかった。
代わりに、物資表に添えた短い返事を書いた。
『お前が決めたら、私が支える』
*
一方その頃。大聖堂の奥深くにある大司教の私室。
オルドリック大司教は、机の上の日記の抜粋を見つめていた。新たに公開したい箇所は、数日前から療養係を通じてアデルに確認している。
妹アデルの、震えるような絶望が綴られた記録。
「大司教様」
側近の神官が、青ざめた顔で部屋に入ってきた。
「ゼノン典礼長が、元老会の保守派と結託し、ヴァレリウス大公を次期皇帝の摂政として正式に承認する準備を進めております。大公は、見返りとして教会の特権を保証すると」
「……そうか」
オルドリックの顔には、もはや焦りも怯えもなかった。
「ゼノンたちに伝えておけ」
オルドリックはゆっくりと立ち上がり、自らの司教杖を手に取った。
「私は、これ以上の欺瞞には加担しない。次の議会で、教会の犯したすべての誤りを、この大司教オルドリックの名において公に証言するとな」
「なっ……大司教様!? そのようなことをすれば、教会は終わりですぞ!」
「ええ。一度、終わらせなければならないのだ。これ以上の犠牲を出さないために」
オルドリックは許可された箇所の写しを懐に収め、迷いのない足取りで私室を後にした。




