第38話 霧笛の町
帝都を包み込む真の『大霧』の到達予測まで、あと二十日。
下町の入り組んだ路地にあるトビアスの印刷工房は、今や帝都を救うための巨大な前線基地となっていた。
「第三街区と第五街区、灰布の覆面の配備完了しました。これで南区はすべてカバーできます」
近衛の軍服を泥で汚したイルザが、地図に赤いピンを刺しながら報告する。
「よし。トビアスさん、新しく任命した街区責任者たちへの手順書の印刷は?」
「昨日の夜に刷り上がって、すでに組合の連中が配って回ってる。北方軍からの水門操作の応援部隊も、明日の朝には各配置につく手筈だ」
インクまみれのトビアスが、親指を立てて笑った。
皇帝レオンハルトの統治権が停止された今、臨時摂政であるヴァレリウス大公は新たな『偽りの絶対皇帝』を即位させるための準備に夢中で、肝心の大霧対策を完全に放置していた。
だからこそ、リシェルは自分たち自身の力で、帝都の何万という民衆を救うための『命令なしの避難網』を構築していた。
皇帝の『勅声』による強制的な誘導ではない。各街区に配置した霧笛の音を合図に、住民たちが自らの意志で覆面を被り、事前に定められた安全な退避路へと歩き出す。霧境であるロウ村で何百年も続けられてきた自立的な生存の技術を、帝都全体に移植するという前代未聞の大事業だ。
「聖女様、西区の有力商人から、備蓄倉庫の提供を承諾するとの返答が来ました」
「本当ですか! あそこは強硬派の息がかかっていると聞いていましたが」
「ええ。ですが、聖女様が昨日送られた倉庫の補修費と貸出料の見積もりが効いたようです」
イルザの言葉に、リシェルは机の片隅に置かれた分厚い羊皮紙の束を見つめた。
それは、北塔に幽閉されているレオンハルトから、監査委員の連絡係を通じて届けられた資料だった。
彼は『皇帝』としての命令を下すことはできない。だが、彼がこの十年間で密かに調べ上げていた倉庫の空き状況、商会ごとの輸送路、救援に協力した実績のある者たちの名簿を、すべてリシェルに提供してくれたのだ。
そのおかげで、リシェルは協力に渋る商人にも、貸し出す期間と費用負担を具体的に示せた。荷の移動を嫌がっていた倉庫では、隣の商会が一時保管を引き受けた。
レオンハルトは、資金や人員を強権で徴収するのではなく、リシェルが自力で交渉するための『材料』だけを渡し、裏方に徹してくれている。そして、出来上がったこの強固な霧笛網の成果は、すべて「聖女と市民の力」として帝都中に周知されていた。
添付の書状に、面会を求める文はなかった。リシェルは商人への説明に必要な頁を抜き出し、残りを手元へ戻した。
「これで全街区を結べました。今日のうちに実際に吹いて、届かない場所を調べましょう」
作業台の地図に最後のピンを刺した時、正午の鐘が鳴った。リシェルは深く息を吐いた。
「お疲れ様です、聖女様。少し仮眠を取られては」
「ありがとう、イルザ隊長。試験まで、少し横になります。報告書は結果が出てからにします」
午後の試験では、南の路地に音が届かなかった。中継役を増やして吹き直し、最後の家から確認が返った頃には、空が暗くなっていた。
皆が寝静まった後、リシェルは一人ランプの灯りを頼りに、レオンハルトへの報告書をしたためた。
避難網がつながり、試験で見つかった南の路地の聞こえにくさを、中継役の増員で補ったこと。ユリアンが彼からの手紙に勇気づけられ、安全な隠れ家で書記官の勉強を始めていること。そして、大公が偽勅の準備を急いでいるため、もう時間がないこと。
書き終えた手紙を、監査委員の連絡係に託す。
数時間後の明け方。
うとうとしていたリシェルの元に、北塔からの返信が届けられた。
封を切り、彼の力強く整った筆跡を追いかける。
『大公の私邸の地下構造については、かつての近衛の記録と照合し、侵入経路の目星がついた。新制度への移行、すなわち「改誓」を強行するにあたり、偽勅の源泉を断つことは必須の条件となる。決行の日に向けて、準備を怠るな』
相変わらずの、冷徹で実務的な文面だ。
最後の余白に、小さな字が書き足されていた。
『追伸。
これほどの規模の避難網を、命令なしで完成させるとは。
いやぁ、おっかないこった』
「……ふふっ」
その一文を見た瞬間、リシェルは堪えきれずに吹き出してしまった。
『おっかないこった』。以前、彼が不器用に使ってみせ、使い方を間違えていたロウ村の短い訛り言葉。
ロウ村では、相手の成し遂げたことに対して「恐ろしいほど大したものだ」と称賛する時にも使う言葉だ。今度は意味が通った。
追伸の上で、一字だけ書き直されていた。声に出しながら覚えたのだろうか。リシェルは、角ばった字の最後の払いを指でなぞった。
眠れていますか。
返事の余白に書きかけて、ペンを止めた。今それを尋ねれば、答えが来るまで気になってしまう。まだ、そこまでは戻れなかった。
別の紙へ、中継役の配置変更だけを書き写す。その下に、一行添えた。
『今度は、言葉の使い方が合っています。トビアスさんにも伝えます』
読み返すと、少し頬が緩んだ。自分が今、返したいのはこれだった。
書いた一行を消さずに、連絡係へ託した。
*
翌日。避難網の完成に安堵の空気が流れていた工房に、招かれざる客が訪れた。
「……こんな下町の薄汚れた場所で、随分と楽しそうですね、聖女様」
入り口に立っていたのは、マリエラだった。
旧聖女支援組織『白百合の家』の代表であり、先代聖女アデルの惨状をリシェルに伝えた女性。
「マリエラさん。どうしてここに」
「あなたのやり方に、我慢ができなくなったからです」
マリエラの瞳には、昏い怒りの炎が燃えていた。
「避難網? 改誓? そんな生温い改革で、何が変わるというのですか! アデル様をはじめとする、過去の聖女たちが受けた苦痛と尊厳の破壊は、そんな綺麗な法案一つで許されるものではない!」
「改革を進めても、過去の責任を問う審理は続けます。ただ、次の犠牲を防ぐ準備も、今やらなければ――」
「それだけでは足りないと言っているのです!」
マリエラが激昂して叫んだ。
「ゼノンも、十年前の奉献に同意した皇帝も! 奴らを全員広場に引きずり出して処刑し、あの大聖堂を焼き払わなければ、復讐にはならない! それができないと言うのなら、あなたの改革は甘すぎる!」
「復讐のために国を焼けば、罪のない人々まで犠牲になります」
リシェルが毅然として反論すると、マリエラは冷たく鼻を鳴らした。
「……やはり、あなたは私たちとは違う。皇帝に心底取り込まれた、偽りの聖女だ」
マリエラは忌々しげにリシェルを睨みつけると、身を翻した。
「大公は、教会の秘密の保管庫を開き、責任者を裁くと言いました。あなたが動かないなら、私はそちらに懸けます」
「待ってください、マリエラさん!」
リシェルの制止も聞かず、マリエラは工房から立ち去ってしまった。
大公との最終決戦を前にして、味方であるはずの陣営から生じた致命的な分断。
憎悪と復讐の連鎖が、リシェルが築き上げようとしている新しい国の足元を、密かに崩し始めていた。




