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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第37話 十四歳の継承者

「助けて、聖女様……! 大公は、数日後に私を即位させると言って聞かないんだ!」


 北塔の薄暗い階段で、十四歳の皇族ユリアンは、すがるようにリシェルの袖を握りしめていた。


 レオンハルトの遠縁にあたる彼は、もともと書記官を目指して勉学に励む大人しい少年だった。だが、レオンハルトの統治権が停止された今、ヴァレリウス大公にとって彼は「血筋の正統性」を主張するための最も扱いやすい操り人形だった。


「ユリアン殿下、まずは落ち着いてください。深呼吸を」


 リシェルは怯える少年の肩を抱き、周囲を警戒しながら彼を北塔の外へと連れ出した。


 このまま離宮へ戻れば、すぐに大公の手の者に引き離されてしまう。リシェルは機転を利かせ、下町にあるトビアスの印刷工房へと向かった。


 インクの匂いが漂う工房の奥、秘密の作業部屋。


「……なるほど。大公は自分が摂政として実権を握りつつ、都合の良い神輿を立てて民衆の不満を逸らそうって魂胆か」


 話を聞いたトビアスは、油で汚れた手を布で拭いながら顔をしかめた。


「嫌だ。私は人の身体を無理に動かす命令なんて使いたくない。炎の力で自分の喉を焼くのも恐ろしい……でも、逆らえば大公に何をされるか」


 ユリアンは膝を抱えて震えていた。


 リシェルはトビアスと視線を交わし、静かにユリアンの前にしゃがみ込んだ。


「殿下。現状、あなたが取れる選択肢は三つあります」


 リシェルは、感情を排して淡々と事実を並べた。


「即位の話を受ける。安全な場所へ退いて返事を待ってもらう。正式に断る。今見えている道は、この三つです」


「断ったら、殺されるかもしれない」


「だから、返事より先に身を守る手配をします。どれを選んでも、護衛は外しません」


 リシェルは、少年の手から無理に袖をほどかずに言った。


「十四歳のあなたに、今すぐ国の将来を決める責任はありません。今日は眠ってから考えてもいい」


 ユリアンは袖を握ったまま、何度か頷いた。


 トビアスが湯を持ってきた。少年が両手でカップを持てるようになるまで、三人は皇帝の話をやめた。


*


 その日の夕刻。


 リシェルはユリアンの現状と今後の対応をレオンハルトに伝えるため、再び北塔へ向かっていた。


 ただし、今回は中へ入ることはできない。大公の監視が強まり、面会が厳しく制限されていたためだ。リシェルはトビアスを連絡係として伴い、塔の外周、鉄格子の嵌まった小さな窓を見上げる位置に立っていた。


 窓の奥に、レオンハルトの姿があった。


 リシェルは目で合図を送り、持参した手紙を警備の兵士(イルザの息がかかった者)を通じて上の階へと届けさせた。


 レオンハルトは窓から、下を見下ろしていた。


 彼の視線の先には、リシェルと、彼女のすぐ傍らで周囲を警戒しながら立つトビアスの姿があった。


 レオンハルトは窓枠をつかんだ。二人が同じ紙を覗き込む姿に、視線が止まる。


 やがて窓から離れ、届いた公務の報告へ目を落とした。余白へトビアスのことを訊こうとして、ペンを止めた。


 届けられた手紙を読み、レオンハルトはすぐさま返信を書き記した。


 数十分後、兵士を通じてリシェルの手元に戻ってきた手紙には、ユリアンへ宛てた言葉が綴られていた。


『ユリアンへ。


 皇族の義務など忘れて構わない。私に代わって玉座に座れとも、国を救えとも命じない。


 逃げるのも、戦うのも、従うのも、選ぶのはお前自身だ。


 返事を待ってもらう間も、断った後も、護衛と居場所は用意する。私に与えられた範囲で、必要な手配に協力する』


 保護の条件に、即位も拒否も書かれていない。リシェルはそこを二度読んでから、手紙を折り直した。


*


 工房に戻ったリシェルは、レオンハルトからの手紙をユリアンに渡した。


 薄暗い部屋の中で、ランプの灯りを頼りに手紙を読んだユリアンの目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……レオンハルト兄様は、私に無理をしろとは言わなかった。聖女様も、私に答えを押し付けなかった」


 ユリアンは涙を拭い、顔を上げた。


 少年はまだ怯えていた。それでも、手紙を持つ手を膝へ下ろした。


「私は、逃げません」


 ユリアンははっきりとした声で言った。


「大公の操り人形になって、誰かを命令で縛るような皇帝には絶対になりません。私は、私の意志で戴冠を拒否します。自分の生き方は、自分で決めます。……書記官の勉強、もっとしたいですから」


 拒否の意思は書面にし、中立の立会人を通して議会へ提出した。大公と二人きりで対面する必要はなかった。


「よく言った、坊主。アンタのことは、俺たちが絶対に死守してやる」


 トビアスが頼もしく笑うと、ユリアンは決意に満ちた表情でリシェルに向き直った。


「聖女様。大公は、私が皇帝になった時のために、『準備』を進めていました」


「準備?」


「はい。大公の私邸の地下に、古い血のついた印と、大量の空白の羊皮紙が保管されている部屋があるんです。私は一度だけ、そこに案内されました」


 リシェルとトビアスの顔色が変わる。


 偽勅保管庫。


 ヴァレリウス大公が、帝都を影から操ってきたすべての元凶。


「その場所の詳しい見取り図を、描くことができます」


 ユリアンが震えの止まった手でペンを握る。


 少年が自らの意志で選んだ拒絶が、大公を追い詰める決定的な反撃の鍵を、彼らの手にもたらそうとしていた。

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