第36話 北塔の全部
皇宮の敷地の北端にそびえ立つ、窓の少ない無骨な石造りの塔。
重大な罪を犯した皇族を幽閉するための『北塔』の最上階に、レオンハルトは収容されていた。
彼が統治権を停止されてから数日。臨時摂政となったヴァレリウス大公は、帝都の警備網を自らの息のかかった部隊にすげ替え、元老会を意のままに操り始めていた。
面会には、リシェルの希望でイルザが同行した。部屋の外で待機し、呼べばすぐ入れる位置につく。公務に関わる事実は記録し、私的な言葉を勝手に公開しないことを、入室前に双方で確認した。
大公側の官僚は全会話の公開を求めたが、監査委員が退けた。証言を残すことと、被害を受けた者の面会を見世物にすることは、同じではない。
冷たい石の階段を上り、分厚い鉄の扉が開かれる。
窓から差し込む冬の光だけが頼りの薄暗い部屋に、簡素な机とベッドが置かれていた。軍服ではなく、装飾のない黒いシャツを身にまとったレオンハルトが、机の前に座っていた。
「……一人で来たのか」
レオンハルトは立ち上がり、リシェルを見つめた。
幽閉されているとはいえ、彼の背筋は真っ直ぐに伸び、その瞳には淀みがなかった。
「外にイルザ隊長がいます。今日、私が聞きたいと思って来ました。事実については、確認した記録を監査へ出します」
リシェルは数歩の距離を保ったまま、彼と向き合った。
「ああ。書類も、ここに揃えてある」
レオンハルトは低く、ひどく落ち着いた声で口を開いた。
「十年前、私は大号令で二百人の民を殺した。そしてその直後、自責と恐怖で正常な判断力を失っていた私は、当時の摂政であった叔父上の言葉に縋り、アデルの奉献同意書に署名した」
彼は言い訳をしなかった。叔父に騙されたと責任を転嫁することもしなかった。
「私が彼女を祭壇へ送った。そして、彼女を含む過去の聖女たちが炎の中で焼かれる『否』の痛みを燃料として、私は皇帝の力を振るってきた。その代償として、声を出すたびに喉を焼かれ、自らの肉体をも削ってきた」
レオンハルトは、シャツの襟元を少しだけ引き下げた。
そこには、リシェルが一度だけ触れたことのある、内側から肉が裂けたような歪で痛々しい『喉の傷』が露わになっていた。
リシェルは傷から目を上げた。
「喉が痛むことと、責任を取ることは、別です。痛みに耐えれば済む話にはしないでください」
彼は頷き、襟を戻した。
「そしてあの日、私はお前を失う恐怖に負け、その呪われた力を使って、お前の選択を奪った」
レオンハルトの視線が、リシェルの瞳を真っ直ぐに射抜く。
「それに、記録を調べたら話すと約束しておきながら、私は署名のことを黙っていた。お前と親しくなる間もだ」
彼は机に置いた奉献書の控えへ目を落とした。
「アデルの私事を守るために、自分の署名まで隠す必要はなかった。お前に知られるのが怖くて、約束した時を過ぎても話さなかった」
「その間、私は、知らないままあなたを信じていました」
「ああ。そのことも、私の責任だ」
そこには「許してほしい」という懇願も、「また昔のように戻りたい」という復縁の要求も一切含まれていない。
日付を確かめ、署名の順を訊き、知らないと言われた箇所には調査中と書いた。すべてを一度の会話で解決することはできない。空欄もそのまま残した。
リシェルは、黙って彼を見つめ返していた。
彼を庇って「あなたは悪くない」と言うつもりはない。二百人の命も、アデルの奪われた十年も、あの日リシェルが感じた恐怖も、決してなかったことにはならない。
リシェルは、ゆっくりと一歩、彼の方へ歩み寄った。
レオンハルトが微かに目を見開く。
リシェルは彼の手前で立ち止まると、静かに右手を伸ばした。
傷の手前で止めた指を見て、彼が頷いた。リシェルは襟元に残る傷へ指を添えた。自分の指が震えるかどうかを、確かめるような接触だった。
「……っ」
レオンハルトの息が詰まり、大きな身体が硬直する。
リシェルの指先から伝わる温もりが、冷え切っていた彼の傷跡にじんわりと染み込んでいく。
「リシェル……」
「許してはいません」
リシェルは彼の傷に触れたまま、静かに告げた。
「あなたが奪ったものは戻らない。私が味わった絶望も消えない。だから、これは許しではありません」
リシェルの瞳が、彼を真っ直ぐに捉える。
「でも、今日ここへ来たのは私です。話を聞くことも、今触れたことも、私が決めました」
指を離すと、彼は襟を直した。触れ返さず、次に確認する書類を机の空いたところへ置いた。
レオンハルトの黒い瞳が小さく揺れ、やがて、彼は限界まで張り詰めていた息を静かに吐き出した。
*
「大霧が来るまで、あと二十二日ほどです」
リシェルは机へ戻り、避難計画を開いた。
「大公は私の持つ『原典』の存在を恐れています。写しは複数の場所へ預けました。私を押さえても、記録は消えません。ただ、身の安全は別に備える必要があります。これからは、外のことは私とトビアスさんたちに任せてください」
「ああ。叔父上は必ず、私に代わる新たな『権威』を立てようとするだろう。大霧の不安から民の目を逸らすためにな」
レオンハルトが冷静に分析した通り、ヴァレリウス大公は自らが皇帝になるための口実を探しているはずだった。
「私は塔の中から、できることをする。連絡は、監査委員を通じてくれ」
リシェルが短く頭を下げ、面会を終えて鉄の扉を開けた。
冷たい石の階段を下りようとした、その時だった。
「……待って! 聖女様!」
バタバタと慌ただしい足音と共に、階段の下から一人の少年が駆け上がってきた。
豪奢な貴族の服を着ているが、その顔は血の気を失い、恐怖に引き攣っている。
皇帝の遠縁にあたる皇族の少年、十四歳のユリアンだった。
「ユリアン殿下? どうしてここに」
リシェルが驚いて足を止めると、ユリアンは彼女の服の袖を震える手で強く掴んだ。
「助けて、聖女様……! ヴァレリウス大公が、元老会で、私を『次の皇帝』にすると言い出したんだ!」
リシェルは息を呑んだ。
「私には、あんな炎の力なんて扱えない! 命令で人を縛るなんて嫌だ! でも、大公は『神の意志だ』と言って、数日後に戴冠式を強行すると……」
ユリアンは涙目で、必死にリシェルを見上げた。
「どうすればいい!? 聖女様なら、この理不尽な命令を、拒む方法を知っているんだろう!?」




