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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第35話 皇帝の署名

元老会の開会を告げる鐘が、重苦しい空を震わせて鳴り響いていた。


 皇帝の統治権停止を問う、歴史的な議会。離宮の執務室に呼び出されたリシェルは、出立の準備を整えたレオンハルトと向き合っていた。


 顔色は悪かった。リシェルが席につくと、彼は一通の書面へ手を置いた。


「これを、お前に預けておく」


 レオンハルトは、執務机の上から一通の古い羊皮紙を手に取り、リシェルに向かって差し出した。


「これは?」


「十年前、先代聖女アデルを祭壇へ送ることを、私が裁可した奉献同意書の原本だ」


 リシェルの目が微かに見開かれた。


「昨夜、叔父上の密偵が照合用の資料庫から書類を盗み出した。あちらが手に入れたのは教会保管用の副本だが、効力は同じだ。今日の議会で、叔父上は必ずこれを暴露し、私の統治権停止の決定打とするだろう」


 レオンハルトの低い声は、自らの破滅を語っているにもかかわらず、ひどく落ち着いていた。


「陛下……」


「以前、地下の避難室で、お前は私に尋ねたな。十年前の奉献に、私が関わったのかと。あの時、私は答えることから逃げた。……だが、今はすべてを話そう」


 彼はリシェルから視線を逸らさず、十年前の真実を口にした。


「私が即位した直後のあの日。二百人の民を死なせてしまった直後で、私の精神は完全に限界を超えていた。自らの声が民を殺したという恐怖と自責に押し潰されそうになっていた私に、当時の摂政であった叔父上が囁いたのだ。『これ以上の帝都の混乱を防ぎ、民を救うには、新しい聖女を奉献して皇帝の力を安定させるしかない』と」


 レオンハルトは唇を強く噛み締めた。


「私は、それに縋ってしまった。自分の罪を少しでも軽くしたいという身勝手な逃避から、アデルの命を差し出す書状に、この手で署名したのだ」


 リシェルは署名の日付を見た。もっと早く聞きたかった。その思いを残したまま、次の言葉を待った。


「私はこの罪をもって、統治権の停止を受け入れる。叔父上の弾劾に反論はしない」


 レオンハルトの言葉に、リシェルは深く息を吸い込んだ。


 彼がどれほどの後悔を抱えて十年を生きてきたか、痛いほどに伝わってくる。彼を庇ってやりたい、彼と共に戦ってやりたいという感情が、胸の奥で騒ぐ。


 だが、リシェルは自ら引いた政治的パートナーとしての冷徹な境界線を崩さなかった。


「……わかりました」


 リシェルは感情を押し殺し、監査役としての冷たい声を出した。


「私は、議会であなたを弁護する義務は負いません。過去の罪は、あなた自身で背負ってください」


「ああ。当然だ」


「ただ、あなたの安全と、証言の機会は守ります。黙って全部を引き受けて、証拠まで失わせることはしないでください」


「私を庇う必要はない」


「庇うためではありません。誰が何をしたのか、あなたのしたことも、大公がしたことも、調べられるようにするためです」


 リシェルは、証拠保全の申立書を差し出した。拘束するなら中立の警備を置き、面会と記録の提出を認めること。期限を定めて拘束の必要性を見直すこと。


 レオンハルトは読み、頷いた。


「私からも提出する」


 レオンハルトは、差し出していた羊皮紙をリシェルへと近づけた。


 リシェルがそれを受け取ろうと手を伸ばす。


 二人の指先が、ほんの数ミリの距離まで近づいた。


 彼は紙を机へ置いてから、手を引いた。


 リシェルは原本を持ち上げた。十年前の署名は、控えで見たものと同じだった。若い字だからといって、その一行が誰かの人生を決めた事実は軽くならなかった。


「……受け取りました」


 リシェルが羊皮紙を懐に収めると、レオンハルトは静かに頷き、執務室の扉へと向かった。


*


 数時間後の、元老会・円形議事堂。


 事態は、大公の目論見通りに最悪の展開を辿っていた。


「見よ! これが、我らが皇帝の真実の姿だ!」


 議場の中心で、ヴァレリウス大公が十年前のアデル奉献書の副本を高く掲げ、怒りに満ちた声で演説をぶっていた。


「自らの過ちで二百人の民を死なせ、あまつさえその責任から逃れるために、罪なき聖女を祭壇へ送ることに同意したのだ! このような狂気と隠蔽に満ちた男に、大霧の危機が迫る帝国の舵取りを任せておけるだろうか!」


 大公の言葉に、保守派の議員たちが一斉に同調の声を上げる。


「皇帝の暴走を止めろ!」「統治権の停止を!」


 中道派の議員たちも、決定的な証拠を突きつけられ、沈黙するしかなかった。


 議長席に立つレオンハルトは、彼らの罵声を一身に浴びながら、ただ静かに前を見据えていた。


「私の署名だ」


 レオンハルトは答えた。


「裁可の責任は私にある。同時に、当時の摂政の指示書と、血液保管の記録についても調査を求める。私の責任を調べることと、ほかの関与を隠すことは別だ」


 議長代理は提出書類を受理した。大公が異議を述べたが、証拠保全の申立ては記録に残った。


 リシェルは、自分の控えにも受理番号を記した。


 やがて、議長代理を務める高位貴族が、重々しく木槌を鳴らした。


「……採決の結果、元老会は過半数の賛成をもって、皇帝レオンハルトの統治権の即時停止を可決する。皇帝は追って沙汰があるまで、証拠と身柄を保全するため、北塔で監督下に置く。拘束の必要性は七日ごとに再審査し、証言と面会の機会を保障する」


 北塔。それは、重大な罪を犯した皇族が収容される、冷たく暗い牢獄の塔。


 近衛兵たちがレオンハルトを取り囲む。


 彼は抵抗することなく、静かに兵士たちに従って歩き出した。


 退出の間際、彼は一度だけ、傍聴席にいるリシェルへと視線を向けた。目が合うと、彼は小さく頷き、前へ向き直った。


「さて、皆様」


 皇帝の姿が見えなくなった議場で、ヴァレリウス大公が満面の笑みを浮かべて両手を広げた。


「国家の危機にあたり、僭越ながら、このヴァレリウスが『臨時摂政』として議会の監督の下、当面の政務を預からせていただく。大霧の脅威から、私が必ずや民を救ってみせよう!」


 大公が政務を握った。だが、予算と人事を議会へ報告する条件、そして調査を止めない条件は、決議に残った。


 追加配布された皇位継承候補の名簿に、ユリアンという名があった。十四歳。リシェルはその年齢に目を留め、名簿も控えの束に挟んだ。


 リシェルは原本を証拠の保管官へ預け、受領証を受け取った。写しだけでは消されてしまう記録も、これで照合できる。


 大公は、証言台へ立たずに済むつもりなのだろう。その背中を見送りながら、リシェルは次の開廷日を書き留めた。

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