第34話 政治では組む。恋はまだ戻さない
元老会におけるヴァレリウス大公の動きは、恐ろしいほどに迅速だった。
皇帝自らが告白した「真名による不当な拘束命令」という事実を大義名分として掲げ、大公は保守派の議員たちを一気にまとめ上げた。そして、皇帝の精神状態は国政を担うにふさわしくないとして、『皇帝の統治権の即時停止』および『大公による臨時摂政の復活』を正式に議会へ提案したのだ。
離宮の執務室は、重苦しい空気に包まれていた。
レオンハルトは一人、広大なマホガニーの机に山と積まれた各州からの書簡に目を通していた。統治権停止の提案が可決されれば、彼は大号令を使う権限も、避難網へ人員と予算を回す権限も失う。すでに配備した物資だけでは、足りない街区があった。
ノックの音が響き、重い扉が開かれた。
「リシェル」
レオンハルトは立ち上がりかけたが、彼女の後ろにいる記録官を見て、席に戻った。
扉の前に立っていたのは、数日ぶりに執務室を訪れたリシェルの姿だった。
彼女はまっすぐに歩み寄り、机を挟んでレオンハルトの前に立った。
「陛下。元老会の動向は、イルザ隊長から聞きました」
「……ああ。叔父上は、私の過ちを最大限に利用するつもりのようだ。私に反論の余地はない」
レオンハルトは自嘲するように目を伏せた。
「いいえ、反論はしていただきます」
リシェルの言葉に、彼が驚いたように顔を上げる。
「大公閣下にこの国を渡せば、彼らは再び『誓灯』を燃やし、大霧を皇帝の力で強引に防ごうとするでしょう。教会の嘘が暴かれたのに、また新たな生贄が要求されることになる。それだけは、絶対に阻止しなければなりません」
リシェルは背筋を伸ばし、はっきりとした声で告げた。
「私は、あなたとの引継ぎだけでなく、改誓のための協議にも加わると決めました。停権の審議と大公への権力集中を切り分け、改誓を成し遂げるために、持てるすべての知識を使います」
彼女の決意に、レオンハルトの黒い瞳に微かな光が戻る。だが、彼が何かを言いかけるより早く、リシェルは言葉を継いだ。
「ただし、これはあくまで政治的な共闘です」
彼女の眼差しは冷徹なまま、揺るぎない境界線を引いた。
「恋愛関係は、保留とします。あの一時間の恐怖を、私はまだ忘れられません。公務の上であなたを支えますが、私的な許しを与えたわけではないことを、ご理解ください」
リシェルは、面会の時間と連絡の窓口を紙に書いた。帰る時刻も、最初に伝えた。
だが、レオンハルトは一切の反論も、言い訳もしなかった。哀れみを乞うような顔も見せなかった。
「……条件はつけない」
彼は深く頷き、静かに答えた。
「お前が私と共に政治の場に立ってくれるのなら、それ以上は何も求めない。私的な返答も、許しも、今は不要だ」
彼のその態度は、謝罪の言葉を並べるよりもずっと誠実だった。
自分の過ちをなかったことにしようとせず、彼女が引いた線を正確に守り抜く。その潔さに、リシェルは微かに胸の奥が痛むのを感じたが、表情には出さずに手元の資料を広げた。
二人は同じ机を囲み、大公の提案を切り崩すための対策を練り始めた。
「統治権停止には、元老会の過半数が必要です。ただ、停権に賛成する人すべてが、大公の摂政就任にも賛成とは限りません。処分の審議と、権限の預け先を別々の議案にしてください」
「私が直接、中道派の有力者へ書簡を書こう。勅声の威圧に頼らず、これまでの治世の実績と、今後の権限分散の確約をもって説得する」
飛び交うのは、ひたすらに冷徹な政治の話だけだった。
かつてこの机で夜食を分け合い、肩を並べて笑い合った記憶が、すぐそこにあるのに、互いに手を伸ばそうとはしない。
重い疲労の中、レオンハルトが地方領主への書簡の文面で行き詰まり、小さく眉間を揉んだ時だった。
トン、トン、と。
リシェルの右手の指先が、無意識に机の表面を叩きかけた。
『助けが必要な時は、三度叩け』
あの音に、また応えてほしい。仕事の言葉だけでなく、前のように。
だが、リシェルは三度目を叩く直前でハッと我に返り、空中で指を止めた。今はもう、彼に私的な甘えを許す関係ではないのだと気づいたからだ。
そのわずかな音に、レオンハルトも反応していた。
レオンハルトのペン先も止まった。二人とも、続きを書けなかった。
視線が絡み合い、互いが何をしようとしたのかを理解して、痛ましい沈黙が落ちた。
レオンハルトは背を伸ばし、ペンを握り直した。
「……続きを。領主たちには、救援費の監査と、地方ごとの配分基準を示す」
「……はい。それがよいかと思います」
二人とも合図を使うことはなく、再び静かに書類へと視線を落とした。
触れられない緊張感だけが、執務室の空気をヒリヒリと焦がしていた。
*
同時刻。
帝都の高級住宅街に位置する、ヴァレリウス大公の私邸。
分厚いカーテンで閉ざされた書斎の奥で、大公は一枚の古びた羊皮紙を手に取り、喉の奥でくぐもった笑い声を漏らしていた。
「素晴らしい。やはり、奴はあれだけの過去を背負いながら、証拠の隠滅すらできていなかったか」
大公の前には、黒ずくめの密偵が膝をついている。
皇帝の資料庫から持ち出されたのは、十年前の『先代聖女アデルの奉献書』の副本だった。教会との照合のため、最近取り寄せられていたものだ。
「十年前、二百人の民を死なせた愚かな少年皇帝。彼が自らの保身のために、聖女アデルを祭壇へ送ることに同意した証拠だ」
ヴァレリウスの指先が、羊皮紙の下部に記された力強い署名をなぞる。
そこには、間違いなくレオンハルト本人のサインが刻まれていた。
「この署名が元老会に公開されれば、皇帝への僅かな同情すら完全に消し飛ぶだろう。己の力で民を殺し、さらに聖女をも殺した非道なる君主としてな」
大公は満足げに羊皮紙を丸め、立ち上がった。
「さあ、王手の準備を整えよう。あの青二才から、すべてを奪い取ってやる」




