第32話 私の声で、私の名を消す
公開審理の翌朝。
帝都には、冷たい霧雨が静かに降り注いでいた。
登録にも使われる『誓印』の原器が破壊されたことで、帝国は百八十年間続いた登録制度を強制的に停止し、「誓約簿への登録と除籍は、本人の肉声による同意のみで成立する」という暫定規則へと移行した。
それはつまり、リシェルが自らの声で、再び帝国と皇帝の呪縛から逃れられることを意味していた。
離宮の玄関ホールで、黒い外套を羽織ったリシェルが馬車を待っていた。
そこへ、足音を忍ばせるようにしてレオンハルトが現れた。
彼は昨日と同じように、リシェルから三歩以上の距離を正確に保って立ち止まった。
「……大聖堂は、ゼノンたち強硬派の本拠地だ。何をしてくるかわからない。私が立ち会おう」
レオンハルトは低く、慎重に言葉を選んで言った。
彼が皇帝として同席すれば、教会の者たちは一切の妨害ができない。物理的な安全を考えれば、それが最も合理的な提案だった。
だが、リシェルはゆっくりと首を横に振った。
「お気遣いは感謝します。ですが、同行はお断りします」
「……」
「手続きにはイルザ隊長と窓口の立会人に付き添ってもらいます。あなたが近くにいると、まだ声が出なくなるのです」
「外周の警備が必要なら、配置図をイルザ隊長に渡してください。私の行き先と帰りの時刻も、隊長に伝えます」
助けを借りる相手を、自分で選べる。そのために手続きをするのだ。
レオンハルトは、反論しなかった。
彼の黒い瞳に一瞬だけ苦痛の色が走ったが、彼はすぐにそれを自制の奥底へ沈め、静かに頷いた。
「……わかった。無理を言ってすまなかった」
彼はこれ以上リシェルを引き留めず、静かに道を譲った。
*
雨に煙る大聖堂。
その最奥にある『洗礼の間』には、冷たい石の床と、古い羊皮紙の匂いが満ちていた。
分厚い書見台の上に、帝国民の魂を管理する長大な台帳――『誓約簿』が広げられている。
「本当に、後悔しないのだな。聖女よ」
立ち会いを務める教会の高位司祭が、憎悪と侮蔑の入り交じった視線でリシェルを睨みつけていた。
「神と皇帝の庇護から自ら外れるということは、この国においていかなる恩恵も受けられぬ、ただの異邦人になるということだ。大霧が来ても、誰もそなたを救ってはくれないぞ」
「除籍しても、市民としての救援や配給は受けられます。暫定規則の説明にも、そうあります」
リシェルが言うと、立会人が該当の条項を読み上げた。司祭は渋々、ページを開いた。
リシェルは怯むことなく司祭を見据え、誓約簿に記された自分の名前の欄を指差した。
「さあ、手続きを。私は、私自身の自由意志において同意します」
リシェルは深く息を吸い込み、洗礼の間の静寂を打ち破るようにはっきりとした声で宣言した。
「私、リシェル・ロウは、誓約簿からの除籍を要求します」
その声が石壁に反響した直後。
誓約簿のページに記されていた非公開の真名と、照合用に添えられた通称の文字が、ふっと薄れ、黒い灰のようにサラサラと崩れて消え去った。
同時に、リシェルの胸の奥で重く蟠っていた見えない鎖のようなものが、パツンと弾け飛ぶ感覚があった。
息がしやすい。身体が軽い。
これが、誰の支配も受けない、自分自身の魂の重さ。
(……これで、私は私のものになった)
登録から外れた今、勅声は彼女に届かない。自分への命令だけを止められなかった状態も解けた。
だが、それであの一時間が消えるわけではない。リシェルは除籍の控えを受け取り、自分の目で日付を確かめた。
「……手続きは終わりました」
リシェルは司祭に一瞥もくれず、踵を返して洗礼の間を後にした。
*
重い木製の扉を開け、大聖堂の外へ出る。
冷たい雨が、リシェルの熱を持った頬を撫でた。
イルザが傘を開いた。合意していた外周の警備は、柱の外側に配置されている。皇帝の姿はなかった。
「手続きは済みました」
リシェルが言うと、イルザは「承知しました」とだけ答えた。歩く速さを急かされずに、二人で馬車へ向かった。
車内には乾いた膝掛けが置かれていた。用意した者の名はない。礼を伝えるために皇帝の部屋へ行く必要もない。
リシェルはようやく、背もたれに身を預けた。
*
離宮へ戻る途中、使いの兵が馬車を止めた。
報せを受け取ったイルザの顔が強張る。彼女はリシェルへ向き直った。
「どうしたのですか、イルザ隊長」
「トビアスが……下町の印刷工房で、教会の兵たちに連行されました!」
「え……?」
リシェルの頭の中が、一瞬真っ白になった。
「『異端の思想を流布し、民衆を惑わした罪』だそうです! 教会側は、皇帝の公開記録を印刷し、霧笛網を構築した彼を、教会の権威を脅かす主犯格として異端審問にかけるつもりです!」
「トビアスさんが、異端審問に……」
教会の異端審問がどれほど残酷なものか、リシェルは知識として知っていた。
「審問の場所と、連行した者の名を教えてください」
リシェルは除籍の控えを鞄に収めた。
皇帝の声から外れたばかりの自分に、何ができるのか。まず、トビアスに会わなければわからなかった。




