第31話 皇帝が自分を裁かせる日
元老会の円形議事堂は、針が落ちる音すら聞こえそうなほどの静寂に包まれていた。
議長席ではなく、法廷であれば罪人が立つはずの中央の証言台。そこに、黒い軍服姿の皇帝レオンハルトが立っていた。
彼を取り囲むように座る議員たちは、誰一人として口を開こうとしない。絶対の権力者である皇帝を自分たちが裁くという、帝国史上かつてない異常な事態に、彼ら自身が怯えきっていた。
その重苦しい沈黙を破ったのは、皇帝の向かい側に立つリシェルだった。
「――では、記録に基づき事実の確認を行います」
リシェルは手元の束ねられた羊皮紙に目を落とし、凛とした声で響かせた。
「改誓の第一回投票の朝。皇帝陛下は、暗殺の危機から私を保護するという目的のため、私の真名を用い、私的な拘束命令を行使しました。この事実に相違ありませんね」
「……相違ない」
レオンハルトの低く、掠れた声が議場に響く。
リシェルは監査役として、皇帝の権力乱用の詳細を一つ一つ公の記録として暴いていく。
「事前の調査報告によれば、この命令の行使にあたり、宰相ハインリヒ殿から『聖女の安全確保のためには、やむを得ない措置である』との助言があったとされていますが」
リシェルが傍聴席の最前列に座る初老の宰相に視線を向ける。
宰相ハインリヒは苦渋に満ちた顔で立ち上がり、深く頭を下げた。
「……その通りです。暗殺計画の報告を受けた際、私は陛下に対し、国家の重要人物である聖女殿の命を優先すべきだと進言いたしました。結果として陛下に過ちを犯させた責任の一端は、この私にあります」
宰相の告白に、議場がざわめく。
リシェルは、手元の記録簿に毅然とペンを走らせた。
「つまり、この国の中枢においては、『命を救うためであれば、個人の意志を奪う命令を使っても構わない』という認識が共有されていたということです。皇帝陛下ただ一人の暴走ではありません」
リシェルはレオンハルトだけを悪役にすることはしなかった。
皇帝の持つ強大な力に依存し、何かあれば「やむを得ない正解」として命令による強制を容認してきた。二人の署名があった。どちらの責任も、もう一人の責任に置き換えることはできない。
「しかし」
リシェルは再び、証言台のレオンハルトを真っ直ぐに見据えた。
「最終的に命令を下し、私の選択を奪ったのは皇帝陛下、あなたです。なぜ、私の明確な拒絶があったにもかかわらず、一時間もの間、命令を解かなかったのですか」
厳しい追及。
レオンハルトは宰相の助言を盾にして言い訳をすることもできたはずだ。だが、彼は決してそれをしなかった。
「……私の、恐怖と弱さゆえだ」
レオンハルトは議場を囲む全員に聞こえるよう、はっきりと証言した。
「彼女は、命令を受けてなお『否』と言い続けた。私は一時間、解除を求める彼女の声を聞き続けながら、それでも自らの恐怖のために、命令を解かなかった。彼女を守るためなどという大義名分ではない。ただ、私が彼女を失うことに耐えられなかった。その自己中心的な感情で、私は彼女を支配したのだ」
皇帝自身の口から語られた、あまりにも生々しい権力乱用の実態。
議場は静まり返り、誰もがその罪の告白の重さに息を呑んだ。
「申し訳なかった」
彼はリシェルへそう言い、許すかどうかを尋ねなかった。
監査委員長は、最初の採決について判断を読み上げた。三十九票で否決された記録は保存する。同時に、筆頭提案者の出席を強制的に妨げたため、その採決手続き自体を無効とする。
自動的に可決へ変わるわけではない。再審議の招集と各議員への通知には、日数が必要だった。
「この権力乱用の再発を防ぐため、私は三つの誓約を受け入れる」
レオンハルトは証言台から一歩前に出た。
「第一に、私的な理由による勅声の使用を完全に禁じる。第二に、公的な皇帝の血液の採取および管理制度を即日停止する。そして第三に……」
彼は懐から、赤黒い印泥が染みついた小さな円筒形の道具を取り出した。
それは、『誓印』と呼ばれる原器だった。洗礼名を誓約簿へ記す時にも、書面へ認証印を押す時にも、この道具が使われてきた。
誓印は先に監査員へ渡された。登録記録と照合し、印面の形を写し、証拠の保全を終えてから、破棄の議案が採決にかけられた。
可決が告げられると、石工が台と槌を運んだ。
レオンハルトは柄を握り、一度では割れなかった誓印を、二度、三度と打った。欠片は監査員が一つ残らず箱へ収めた。
「書面を使った登録は停止する。登録と除籍は、原典にある本人の声による手続きへ戻す」
委員長が暫定規則を読み上げた。皇帝の宣言だけで決めるのではなく、窓口に立つ者にも同じ手順を守らせる。
リシェルは、自分の手元の控えに施行時刻を書いた。
「ただし、懸念事項が一つある」
騒然となる議場を制し、レオンハルトは傍聴席の片隅で沈黙を守るヴァレリウス大公へ鋭い視線を向けた。
「公的な血液管理制度を停止するにあたり、過去の保管庫を監査させた結果……私が即位した直後、かつての摂政時代に採取された古い血液試料が、一部紛失していることが公式に判明した」
その言葉に、議場は別の意味で凍りついた。
皇帝の古い血が持ち出されている。それはつまり、回収しきれていない認証済みの書面や、認証印の複製と合わせれば、偽勅を作れる者がまだいるということだった。登録用の原器を壊しても、すでに外へ流れたものまでは消えない。
ヴァレリウス大公は表情一つ変えず、ただ優雅に足を組み直しただけだった。
「……以上で、本日の公開審理を終了する」
監査委員長が宣言した。リシェルは証言者としての確認欄に署名した。
*
審理が終わり、議員たちが退出していく中。
リシェルは証言台の近くで、封をされた誓印の欠片の箱を見ていた。
コツ、と足音がして、レオンハルトが彼女の数歩手前で立ち止まった。
彼はリシェルに近づかず、触れることもない。
リシェルが引いた境界線を、彼は痛ましいほどに正確に守っている。
「これで、お前が不当に名を書き戻されることはなくなった。登録は今後、本人の声による同意のみで成立する暫定規則へ移行する」
「……はい」
リシェルは顔を上げ、彼を見た。
彼の黒い瞳には、底知れぬ疲労と、彼女を縛ってしまったことへの深い悔恨が沈んでいる。
次の監査の日程が、二人の間の掲示板に貼られた。今日の審理だけで、彼の処分がすべて終わったわけではなかった。
自分を登録し直した印は、確かに壊れた。リシェルはそれを見届け、控えを閉じた。
だが、まだ許すと言うことはできない。彼が手放した力と、これからの行動を、最後まで見届けなければならない。
「暫定規則への移行、承知いたしました」
リシェルは一歩下がり、監査役としての礼をとった。
「しかし陛下。私はあの日、あなたによって誓約簿に『緊急登録』されたままです。私の名は、まだ台帳に残されています」
誓印が壊れた今、他人が彼女の名を消すことはできない。
ならば、どうするか。
リシェルは砕けた誓印の欠片から視線を上げ、静かに、だが確固たる意志を込めて言った。
「明日、私は大聖堂へ向かいます。――私自身の声で、誓約簿から自分の名前を消すために」




