第30話 あなたを拒む
廊下へ出ても、足の裏に敷居の感触が残っていた。
自分で歩ける。侍女の腕を借りながら、リシェルは一歩ずつ確かめた。
「リシェル」
背後から声がした。肩が跳ねる。
レオンハルトは追ってこなかった。扉の脇で立ち止まったまま、彼女が振り返るのを待っていた。
「命令を出したことも、解除を求められて応じなかったことも、私の責任だ」
「聞こえていたのですね」
「聞こえていた」
聞き取れなかったのでも、知らなかったのでもない。リシェルは口の中を噛み、息を整えた。
「記録に、私の真名をそのまま載せないでください。事実を公にすることと、名前を皆に渡すことは違います」
「わかった。監査担当には原本を、公開分には通称と手続きの内容を出す」
「私自身の記録も出します。私が何を言ったか、あなたが何に答えなかったかも」
彼は頷いた。
人の足音が近づき、廊下の先で止まった。侍女が腕を支え直してくれる。誰かがそばにいることが、今はありがたかった。
「今後の連絡は、公務に必要なことだけにしてください。護衛はイルザ隊長と私で相談します。私的な会話と接触は、望みません」
「……わかった」
「理由を、そのたびに説明することもできません」
喉が詰まった。言い終えるまで、彼は黙っていた。
「同じことを何度も言わせない。今日のことは、私からも公表する」
リシェルは返事をせず、歩きだした。
彼の部屋の前を通り過ぎる時、中に二人分のカップが見えた。昨日まで、あの椅子へ座ることを楽しみにしていた。
立ち止まらずに行く。廊下の角を曲がってから、侍女に少し休みたいと頼んだ。
手を借りて腰を下ろすと、ようやく涙が落ちた。
*
その日の午後。
皇宮は、レオンハルトが自ら発した公告によって蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
『皇帝レオンハルト・ヴァルディアは、個人的な感情と恐怖に基づき、聖女リシェルに対して真名を用いた拘束命令を不当に行使した。この権力乱用の事実を公に認め、元老会による監査を受けるものとする』
隠蔽して丸め込むこともできたはずの命令使用を、彼自身が「不当な権力乱用」であると断定したのだ。第一回投票が否決され、皇帝の力が枯渇しかけているという不安が蔓延している中でのこの告白は、宮廷の保守派たちに皇帝を弾劾する絶好の口実を与えることになった。
翌日の午後。
リシェルは必要な配給の引継ぎだけを行うため、イルザと記録官を伴って会議室へ入った。
部屋にはレオンハルトと、数人の文官が控えている。
「……明日の北区の配給についての確認です」
リシェルが事務的な声で書類を机に置く。
「ああ。イルザから合意した配置を受け取った。必要な人員は手配してある」
レオンハルトは書類を受け取ったが、その際、彼の指先がリシェルの手に触れることは決してなかった。
彼はリシェルから常に三歩以上の距離を保ち、書類は記録官を通して渡した。話が終わると、リシェルは予定していた時刻に席を立った。
打ち合わせが終わり、リシェルが部屋を辞そうと扉に手をかけた時。
ふと、背後からの強い視線を感じて、リシェルはわずかに振り返った。
机の前に立つレオンハルトと、一瞬だけ視線が交差する。
彼の黒い瞳には、隠しきれない未練と、彼女に触れたいという痛切な渇望が渦巻いていた。だが、彼はそこから一歩も動かなかった。追おうとはしなかった。
リシェルは無言で視線を外し、会議室を後にした。
彼が自らの罪から逃げず、言い訳をしないことはわかっている。だが、あの時、命令によって扉を越えられなかった時の底知れぬ恐怖と絶望は、簡単に消えるものではなかった。
彼女が彼を許すかどうかは、言葉ではなく、これからの彼の行動を見て決めるしかない。
翌朝。
当事者である宰相を外した監査委員の提案により、元老会は一つの決定を下した。
「皇帝の不当な権力乱用に関する、公開審理の開催を決定する」
出席者の名簿に、大公の名もあった。リシェルはそれを読み、拘束の記録へ新しい紙を足した。自分の被害を、誰かの都合のよい話に変えさせるつもりはなかった。




