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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第29話 エルナ、この扉を越えるな

投票の日、リシェルは朝食を半分残した。


 沿道で襲撃を計画する者がいる。イルザから聞いた時から、胃のあたりが固くなっていた。それでも今日は、自分の草案について議場で答えなければならない。


 移動経路は変えてある。護衛はイルザが選び、先行する隊が曲がり角を調べる。危険が消えたとは言えないが、その手順も説明を受けていた。


 八時の鐘が鳴り終えた時、レオンハルトが来た。


「今日は出るな」


 彼は挨拶もせずに言った。


「警備の報告は伺いました。別の道を使います」


「まだ潜んでいる者がいるかもしれない。私の声が届かない場所で襲われたら、どうする」


「イルザ隊長たちが対処します。出発を少し遅らせるなら、議場へ伝令を出してください」


「お前を外へ出すわけにはいかない」


 リシェルは手袋を机へ置いた。


「それは、相談ではないのですね」


 レオンハルトの手には、筒に入った書面があった。机へ広げられた紙を見て、彼女は息を呑んだ。


 緊急再登録の申請書。皇帝と宰相の署名は、すでに揃っている。


「使わないと、約束しました」


 彼は答えなかった。


「レオンハルト様。私を見てください。今、それを使わないで」


 彼は彼女を見た。そのまま、登録用の誓印を押した。


 胸の奥に、細いものが引っかかった。


 彼が真名を記した欄から、簿へ続く灰色の線が伸びていく。リシェルは紙を押し戻そうとして、手を止めた。登録はもう済んでいる。紙を破っても戻らない。


「エルナ」


 あの夜、もう一度とねだった音がした。


「次の九時の時鐘が鳴るまで、この扉を越えるな」


 リシェルは扉へ歩いた。


 二歩、三歩。そこまでは進める。けれど敷居に靴先が近づいた瞬間、足が止まった。上げようとしても上がらない。横へ退くことはできるのに、向こうへは出られなかった。


「否」


 手首が熱を持った。糸も見える。だが、自分に絡む線へ力が届かない。


 再登録されれば、自分への命令は切れなくなる。彼に説明された通りだった。


「解いてください」


 声は出た。考えることも、彼を拒むこともできた。


「私は、同意していません」


 レオンハルトは扉の外に立ったままだった。


「一時間だ。その間に沿道を調べ終える」


「その一時間を、私から取らないで」


 彼の顔が歪んだ。それでも解除の言葉はなかった。


 リシェルは扉から離れた。膝が震え、椅子へ手をつかなければ座れなかった。


 机の紙を取り、時計を見た。八時七分。


『皇帝による緊急再登録と、九時まで出室を禁じる命令を受けた。同意していない。解除を求めたが、応じられていない』


 ペン先が紙を引っ掻いた。書き直さず、そのまま残した。


「立会人を呼んでください」


 廊下の侍女へ声をかけると、彼女は皇帝を見た。


「私が頼んでいます。何が起きているか、見て、時刻を書いてください」


 侍女はためらった後、部屋へ入り、リシェルの横に座った。


 窓からは、出発するはずだった馬車が見えた。御者が誰かを待っている。


 リシェルは大声で、議場へ欠席理由を伝えるよう頼んだ。侍女が使いを呼ぶ間も、レオンハルトは扉の脇にいた。


 名前を呼ばないよう、彼女は先に言った。


「その名で、もう呼ばないでください」


 彼は口を閉じた。


 八時四十分過ぎ、イルザの部下が報告に戻った。


 襲撃者は、変更前の経路で待ち伏せしていた。先行隊が武器を確認し、別方向から来た警備隊と挟んで拘束したという。昨夜決めた警備計画によるものだった。


「では、解いてください」


 リシェルはもう一度言った。


 レオンハルトは報告書を握り締めた。


「まだ全員とは――」


「危険が一つもなくなるまで、私を閉じ込めるつもりですか」


 返事はなかった。


 彼女は新しい時刻を記録した。八時四十三分。再び解除を求め、応じられなかった。


 九時の鐘が鳴ると、敷居の前の糸がほどけた。


 リシェルは立ち、扉を越えた。一歩出られたことに、涙が出そうになった。それが悔しくて、唇を噛んだ。


 レオンハルトが近づこうとした。


「来ないで」


 彼は止まった。


 議場からの使いは、その直後に来た。


 賛成三十九。全定数六十の三分の二、四十票に、一票足りなかった。


 欠席した筆頭提案者に代わって、説明できる者がいなかった論点がある。賛成に傾いていた議員一人が、回答を待てないとして反対へ回ったという。


 だがリシェルには、その紙より先に提出するものがあった。


「今日の手続きには、強制による妨害がありました。この記録も、議会の監査担当へ届けてください」


 使いは皇帝へ目をやり、彼が制止しないのを見て、紙を受け取った。


「私は、あなたと結んだ私的な約束を停止します」


 リシェルはレオンハルトへ向き直った。


「仕事の連絡は、当面、イルザ隊長を通してください。二人きりでは会いません。触れないでください」


 彼の喉が動いた。謝罪なのか、弁解なのか、何かを言おうとしていた。


 リシェルは待たずに、侍女へ付き添いを頼んだ。


 彼に出してもらったのではない。自分で扉を越え、その前を通り過ぎた。

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