第28話 成功してしまった命令
東区へ着くと、運河の橋には、荷車を押して避難する人が並んでいた。リシェルは近衛とともに橋詰めへ走った。
橋の中央が崩れた時、リシェルは対岸に残った赤い頭巾を見ていた。
先ほど荷物を持ってあげた女の子だ。その隣に母親がいる。二人とも、もう渡り始めているはずだった。
「戻って! 橋から離れてください!」
警備兵が叫ぶ。逃げ道を失った二十人ほどの住民が、対岸の橋詰めに固まった。
霧は運河沿いに、北から橋へ迫っていた。風の変化が、観測地点からの報せより早かった。
「下の船着き場を使う」
船頭が綱を投げた。運河の作業舟は岸につながれたまま、避難に使うため待機していた。霧笛に応じた兵が板を架ける。
「舟には乗れます。でも向こうの人たちが動きません!」
崩れた石が船着き場まで落ち、板の半分を濡らしていた。女の子が母親にしがみついている。老人は欄干から手を離せない。
船頭が身振りで呼び、兵が二人を助けに上がった。だが、泣き叫ぶ声に説明が届かない。
リシェルは濃くなる霧の縁を見た。
「板は固定できていますか」
「できます。こちらから引く綱も、もう張った!」
レオンハルトが彼女の横へ来た。
「船頭の示す板を渡らせる。それだけの命令を使う」
安全が永久に続く命令ではない。船に乗れば動作が終わる。リシェルは板をもう一度確かめた。濡れた部分には兵が布を敷き、片側を身体で支えている。
「同意します。乗り終えたら、すぐに終わらせてください」
連署の緊急手順に従い、書記が二人の承認をその場で記した。
「対岸の橋詰めにいる者。兵の支える板を渡り、舟へ乗れ」
声が、狭い運河を越えた。
老人の手が欄干を離れる。少女は母親に抱かれたまま、兵に支えられて板を渡った。転びかけた若者を船頭が受け止める。
最後の一人が舟に降りた。
綱を引く兵たちの掛け声が上がり、舟が岸を離れた直後、橋詰めを霧が覆った。
こちら岸へ着くと、少女は母親の腕から下りて泣きだした。誰も怪我をしていないという報告が届くまで、リシェルは綱の端を握ったままだった。
「陛下が助けてくださった!」
一人が頭を下げ、ほかの者も続く。
レオンハルトは舟と崩れた橋を見比べていた。
「あと少し遅ければ、間に合わなかった」
「はい。船を待機させておいて、よかったです」
リシェルは答えた。
「兵も、船頭さんも……陛下も。ありがとうございます」
彼は頷いたが、対岸から目を離さなかった。
その帰り道、近衛の副官が予備の渡し場の増設を申し出た。
「今日のように、動けなくなる人が必ず出ます。支える人員を増やしたいのですが」
「人員は有限だ。差し迫ったところは私が判断する」
レオンハルトは即答した。
リシェルが口を開きかけた時、彼が激しく咳き込んだ。口を覆う手袋に血が滲む。
彼女は副官へ、提案を文書にしてほしいと頼んでから、レオンハルトの馬車へ急いだ。
*
「拭きますね」
離宮で医師の処置を受けた後、リシェルは濡らした布を彼の口元へ当てた。
彼は目を閉じ、顔を少しこちらへ向けた。いつも手袋に隠される血を、今日は隠さない。
「命令の判断は、記録に残しました。私も署名します」
「……ああ」
「でも、予備の渡し場の話は聞いてください。次は、あなたの声が届かない場所かもしれません」
レオンハルトは返事をしようとして、喉を押さえた。
リシェルは白湯を持たせた。彼が飲み終えるまで、結論を急がなかった。
翌朝、二人は誓灯の残量を確認した。
灯の高さを測る印から、炎の縁が指一本ほど下がっていた。小命令とはいえ、二十人を動かした分は目に見える。
「大号令一回分は残っています」
記録係の報告に、リシェルは肩の力を抜いた。
「ただし、それ以外の余裕は少ない。偽勅も同じ灯を使います。残量の確認を増やします」
レオンハルトは灯を見上げた。
「必要な時に、迷って使い損なうわけにはいかない」
リシェルは彼の横顔を見た。
「必要かどうかを、一人で決めないために連署したのです」
「わかっている」
その返事は早かった。早すぎたことが、帰りの道でも気にかかった。
*
同じ夜、裏路地の地下室で、銀貨の袋が開かれた。
使いの男は、議事堂周辺の見取り図を広げる。
「最初の採決の日だ。聖女は自分の案を弁護しに来る。護衛の列が曲がる、この道で待て」
「皇帝も来るのか」
「先に議場へ入る。声の届くところではやるな」
銀貨を受け取った男が、地図を手繰り寄せた。
扉の外には、すでに靴音が遠ざかっていた。




