第27話 灯が足りない
「皇帝陛下の力が、もうすぐ尽きるらしいぞ!」
「聖女が奉献を拒んだせいで、我々は霧から守ってもらえなくなるんだ!」
元老会でのゼノン典礼長の暴露は、教会の息がかかった者たちを通じて、あっという間に帝都中へ広まった。
翌日には、帝都の主要な市場から食料と木綿布が消え去った。
大霧が来る前に少しでも多くの備蓄を確保しようと、富裕層から下町の商人までが狂ったように買い占めに走ったのだ。物価は数時間で跳ね上がり、買えない貧困層が暴徒化する寸前の、一触即発の恐慌状態となっていた。
「駄目だ、小麦も干し肉も売り切れだ! 次の搬入の予定も立たない!」
「布をよこせ! 覆面を作る布がないと、俺たちは霧で死んじまう!」
大通りに面した広場では、暴れ出そうとする群衆を近衛隊が必死に押し留めていた。
リシェルは、印刷工のトビアスと近衛隊長のイルザを伴い、その広場の荷馬車の上に立っていた。
「皆、落ち着いて私の話を聞いてください!」
リシェルが声を張り上げると、群衆の憎悪と不安に満ちた視線が一斉に彼女に突き刺さる。
「聖女だ……! お前が我が儘を言うから、俺たちは見捨てられるんだ!」
「見捨てたりはしません! ですが、こうして物資を買い占め、自分だけが助かろうとすれば、帝都は霧が来る前に内側から自滅します!」
リシェルは怯まずに、手に持っていた市場の流通記録を掲げた。トビアスが徹夜で各商会を回り、集めてくれたデータだ。
「今、市場の倉庫に眠っている布と食料の総量は、帝都の全人口が三日分生き延びるのに十分な量があります! ですが、一部の人間がそれを溜め込めば、覆面を持たない人々が外で霧に倒れてしまいます。覆面は霧の中に住める道具ではありません。互いに道を確かめて、霧の外へ出る必要があるのです!」
その生々しい言葉に、群衆の怒号がピタリと止んだ。
「私たちは、皇帝の命令がなくても生き延びるための『避難網』を作ります。皇室が商会から買い上げた分を、今日から配ります。配給は働ける人にも、働けない人にもあります。その上で、運搬や笛の連絡を手伝える方は、街区の担当者に名を教えてください」
「配給って……俺たちでも、本当に確実にもらえるのか?」
群衆の中から、不安げな声が上がる。
「配給の手配と告知は、俺たち下町の印刷工が責任を持って請け負う」
リシェルの隣で、トビアスが前に出た。彼が十年前の遺族であり、下町で信頼されている職人であることを知る者たちが、ざわめき始める。
「聖女様は、俺たちを見捨てず、俺たちの手で生き残る方法を渡してくれている。……皇帝の命令なんかに頼るより、ずっと確実な方法をな」
トビアスの言葉と、リシェルが提示した現実的な「配給と霧対策の連結」。
それが、ただ怯えるしかなかった民衆に、具体的な行動の指針を与えた。
暴動の火種は少しずつ消え去り、群衆は配給の指示に従うために街区の代表者の元へと散っていった。
*
市場の恐慌を何とか収め、リシェルが離宮の執務室に戻ったのは、それから三日後の夜更けだった。
分厚い扉を開けると、そこには机に向かってペンを走らせるレオンハルトの姿があった。
机の上には、各州からの報告書、市場の買い上げ予算書、そして地方の領主たちからの「皇帝の力は本当に失われるのか」という不安と脅迫めいた書簡が山のように積まれている。
「陛下。南区の配給の目処がつきました」
リシェルが声をかけると、レオンハルトはハッとしたように顔を上げ、即座に手元の書類を伏せた。
「……ご苦労だった。市場の暴動未遂は、お前とトビアスがいなければ防げなかった」
彼は努めて平坦な声を出したが、リシェルにはわかった。
彼の黒い瞳には濃い疲労の色が沈み、目の下には隈ができている。軍服のシワもいつもより多く、彼がこの三日間、ほとんど一睡もせずに計算と手配を続けていたことは明らかだった。
「陛下、少し休んでください。顔色が酷いです」
「大丈夫だ」
レオンハルトは即座に言い放ち、姿勢を正した。
「地方領主からの返簡がまだ残っている。私が休めば、国が揺らぐ」
大丈夫。
それは、彼が今までずっと、一人で完璧な皇帝であろうとしてついてきた嘘だ。
十年前の罪を一人で背負い、誰にも弱みを見せず、絶対の支配者として君臨してきた。それが彼の生きる術だった。
だが、リシェルは彼が隠した書類の端に、計算違いで何度も書き直された跡があるのを見逃さなかった。彼が限界に近いことは誰の目にも明らかだ。
リシェルは机に歩み寄り、計算の合わない欄を指した。
「ここは私が見ます。返簡は宰相府に下書きを頼みましょう」
彼は反論しかけたが、同じ数字を三度書き直した跡を見て、ペンを置いた。
「……エルナ?」
「大丈夫ではありません。あなたは皇帝の力を失いつつあり、今はただの、寝不足の不器用な男の人です」
「一人で背負わないでください。連署の時、二人で重さを分けると言ったではありませんか」
「私は、皇帝だ。弱みを見せるわけには……」
「私には見せてください」
リシェルは机の前に立ち、彼が置いたペンを取り、空いた椅子へ座った。
「私を、頼ってください。レオンハルト様」
頼ってほしい。
ベルタに頼っていいと言われた時の温かさを、リシェルは覚えていた。彼にも、ここで息をついてほしかった。
彼は、伏せた書類をもう一度表へ返した。間違えた数字が、二人の前に並んだ。
レオンハルトは、驚いたように見開いていた目を、ゆっくりと伏せた。
やがて、長く重い息を吐き出すと、彼は椅子から立ち上がり、無言のままリシェルの前に立った。
沈黙の中、彼はゆっくりと頭を下げた。
こつん、と。
リシェルの華奢な右肩に、彼の前髪と、硬い額が触れた。
「……え」
「……少しだけ、このままでいてもいいか」
リシェルの肩に額を押し付けたまま、レオンハルトが低く、ひどく掠れた声で呟いた。
大きな身体を屈めた彼の呼吸が、耳元で聞こえた。リシェルは椅子を引き寄せ、座るよう促した。肩から額を離したくなさそうに、彼はゆっくり腰を下ろした。
リシェルは彼の背へ腕を回した。軍服の下で、張っていた筋肉が少し緩む。
「これでは、計算ができませんね」
「……もう少し」
肩に伏せたままの声が、いつもより近かった。リシェルは笑い、背をゆっくり撫でた。
時計の針の音が聞こえた。やがて彼が顔を上げるまで、二人とも書類には手を出さなかった。
「ありがとう」
離れた肩に、まだ重さが残っている。リシェルが椅子を戻すと、彼は水差しから二人分の水を注いだ。
グラスを受け取る時、窓の隙間から流れる風に、塩の匂いが混じった。
リシェルは窓辺へ寄った。手首に当たる風が冷たい。今日の観測報告では、まだ東区へ向かう風ではなかった。
「風が変わっています。東区の観測所へ確認を」
言い終えたところで、扉が叩かれた。
入ってきた伝令は、東区の運河沿いで小霧が見つかったと告げた。数時間以内に居住区へ届く見込みだという。
リシェルは地図を開き、運河を指でたどった。
「低い橋から先に、人を渡してください。そこが塞がれば、逃げ道がなくなります」




