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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第26話 絶対命令を壊すための草案

奉献制度の永久停止。


 祭儀法廷でのあの大転換から数日が過ぎたが、帝都は未だに静かな興奮と戸惑いの渦中にあった。教会の嘘が暴かれたことで民衆は安堵したが、同時に「では、やがて来る大霧をどうやって防ぐのか」という現実的な不安が、街の底に燻り続けている。


 離宮の執務室は、書類の山で埋め尽くされていた。


「……第一条。命令に対する拒否を、登録したすべての者の権利とする」


 リシェルが読み上げた条文に対し、向かいに座るレオンハルトが羽ペンを走らせる。


「第二条。誓約簿への登録は自動ではなく、全国民が自らの声で登録の継続か除籍かを選ぶ権利を有する」


 彼が書き記した文字は、迷いがなく力強い。


 二人が今作成しているのは、建国誓約そのものを書き換える最終儀式――『改誓』のための新たな法案の草案だった。


 大霧が来る前に、皇帝の絶対命令に頼らない新しい国の仕組みを作らなければならない。そのための猶予は、もはや二ヶ月ほどしか残されていなかった。


「本当に、未練はないのですか」


 リシェルは、ペンを動かすレオンハルトの手元を見つめて言った。


「この草案が通れば、あなたはもう誰も強制できなくなります。皇帝としての絶対的な権威は失われ、ただの人に戻ってしまうのですよ」


「三百年前の約束が、途中で歪められた。今の形に固執する理由はない。あんな炎に頼らなければ保てない玉座なら、最初から必要ない」


 レオンハルトは書類から顔を上げず、淡々と答えた。


「それに」


 彼がふとペンを止め、黒い瞳をリシェルに向けた。


「私が力を失うことを、お前が一番望んでいるだろう。ならば、私が迷う理由はない」


 低く、少し掠れた声。そこに込められた真っ直ぐな信頼に、リシェルは頬が熱くなるのを感じた。


 あの禁書庫での口づけ以来、二人の間には、言葉にしなくても伝わる確かな熱が通い合っていた。彼は皇帝の力ではなく、一人の男としての誠実さで、リシェルと国を守ろうとしている。


「……そうですね。私が、あなたをただの人にして差し上げます」


 リシェルが微笑んで返すと、レオンハルトは短く喉を鳴らして笑い、再び書類に目を落とした。


 重い政治の課題を背負いながらも、この数日間の執務室での共同作業は、リシェルにとってこれまでの人生で最も満ち足りた時間だった。


 昼夜を問わず机に向かい、時に意見を戦わせ、時に妥協点を探る。


「少し休もう。食事が冷める」


 レオンハルトがペンを置き、傍らに用意されていたワゴンを引き寄せた。


 載っていたのは、厨房が用意した簡単な夜食――温かいスープと、切り分けられたパン、そして果実の盛り合わせだ。


 配膳の経路と食事の検査はいつも通りだった。皿だけは大食堂へ運ばず、二人の机へ届けてもらった。


 レオンハルトは自らスープを取り分け、一つの皿をリシェルの前に置いた。


「ありがとうございます」


 リシェルがパンを千切ってスープに浸していると、レオンハルトが自分の皿から、甘く煮られた林檎の一切れをフォークで刺し、リシェルの口元へと差し出してきた。


「え……?」


「よく頭を働かせている。糖分を摂れ」


 真面目な顔で言う彼に、リシェルはぱちぱちと瞬きをした。


「あの、自分で食べられますが」


「では、皿へ置こうか」


 フォークが引かれかけたところで、リシェルは彼の手首に触れた。


「……このままで」


 自分で言ったことが恥ずかしくなり、急いで林檎を受け取った。甘酸っぱい果汁が広がる。それを満足げに見届けた後、レオンハルトは同じフォークで自分の食事を再開した。


 間接的な触れ合いに、リシェルの心臓がまた少し跳ねる。


 食事が終わり、再び草案の推敲に戻ってから数時間が過ぎた。


 深夜の静寂の中、暖炉の火がぱちぱちとはぜる音だけが響いている。


(……ここを、こう修正して……)


 リシェルは羽ペンを握りしめ、条文の矛盾を直そうと目をこすった。


 だが、法廷での極度の緊張と、数日間の徹夜に近い作業の疲労が、ここにきて一気に彼女の身体にのしかかってきていた。


 書いたばかりの文字がぼやけ、まぶたが鉛のように重くなる。


(あと少し、ここだけ終わらせたら……)


 リシェルの頭がゆっくりと傾き、やがてコトリと、書類の積まれた机の上に突っ伏した。


 規則正しい、静かな寝息が漏れる。


「エルナ、この区画の警備だが……」


 顔を上げたレオンハルトは、机で寝落ちしてしまったリシェルを見て、ピタリと動きを止めた。


 ペンを握ったまま、無防備な寝顔を晒している。いつも気を張って彼にすら噛み付いてくる強気な少女が、今だけは年相応のあどけない表情で眠りに落ちていた。


 レオンハルトは音を立てずに立ち上がり、彼女のそばに歩み寄った。


 起こすべきか迷ったが、彼女の目の下にできた薄い隈を見て、そのまま寝かせておくことにした。


 彼は自分が羽織っていた軍の黒い外套を脱ぐと、それを毛布代わりに、そっとリシェルの小さな肩へと掛けた。


 机の端からずり落ちかけたペンを取り、まだ乾かない文字に触れない場所へ置いた。


「……よく頑張ったな」


 レオンハルトは身を屈め、彼女の耳元で囁くように掠れた声で呟いた。


 指先が髪へ伸びかけて止まる。彼は灯を一つ落とし、目が覚めた時に見えるところへ、水の入ったカップを置いた。


*


 だが、その穏やかな幸福は、翌日の元老会で無情にも打ち砕かれることになった。


「反対です! 皇帝の権限を放棄し、任期制の役職を置くなど、国体を揺るがす暴挙だ!」


 議事堂は、昨日までの親密な執務室とは打って変わって、殺伐とした空気に支配されていた。


 リシェルとレオンハルトが提出した『改誓』の草案は、元老会の激しい抵抗に遭っていた。皇帝という強大な抑止力が消えれば、地方の領主たちが反乱を起こし、既得権益が失われると恐れる保守派の貴族たちが、こぞって反対に回ったのだ。


「改誓を成立させるには、この議会の三分の二の賛成が必要です。現状では、過半数にも届きません」


 宰相ハインリヒが、重々しい声で報告した。


「……説得を続けるしかない。大霧が来る前に、彼らに新しい制度の安全性を理解させる」


 議長席のレオンハルトが冷静に応えようとした、その時だ。


「無駄なことですな」


 法廷での敗北以来、姿を見せていなかったゼノン典礼長が、冷笑を浮かべながら議場の扉から歩み入ってきた。


「教会の嘘を暴いたつもりでしょうが、現実を見なさい。新しい制度を作る時間など、もはやこの帝国には残されていないのです」


「ゼノン。貴様、何の権限でここへ入った」


 レオンハルトの声が鋭く低くなる。


 ゼノンは議場の中央に進み出ると、すべての議員に向かって高らかに宣言した。


「元老会の皆様! 隠蔽を行っていたのは教会だけではありません! 我らが偉大なる皇帝陛下もまた、皆様に重大な事実を隠しておられる!」


 嫌な予感がして、リシェルは息を呑んだ。


 ゼノンは忌々しげにレオンハルトを指差した。


「大聖堂の祭壇を調べさせました。皇帝が勅声を発するための燃料である『誓灯』は……もはや、大号令を一回撃てるかどうかというところまで枯渇している! 皇帝の絶対権力は、すでに空っぽのハリボテなのだ!」


「なっ……!?」


「灯が、尽きかけているだと!?」


 議場が、これまでにないほどのパニックに陥った。


 皇帝の力が失われつつある。それは、いざ大霧が来た時に、あの魔法的な号令によって街全体を強制的に動かす手段が失われたことを意味する。


 国家の最高機密である『灯の残量』。


 それを暴露されたことで、元老会は改誓どころではなく、底知れぬ恐怖と恐慌状態に飲み込まれていった。

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