第25話 聖女は霧を止めていなかった
大聖堂の地下、祭儀法廷。
傍聴席を埋め尽くした元老会議員や司祭たちの間には、かつてないほどの異様な熱気が渦巻いていた。
本日は、奉献制度の停止を求める審理の日だった。前倒しの申立てはすでに棄却されているが、六十日目の再審請求権は残っている。それが来る前に、リシェルは制度そのものを問うことにした。
「静粛に」
木槌の音が鳴り、法廷が静まり返る。
三人の法官が並ぶ席の手前で、証人として出廷した大司教オルドリックが立ち上がった。その顔には、長年彼を縛り付けていた迷いや怯えはすっかり消え去り、悲壮なまでの覚悟が宿っている。
オルドリックの視線が、証言台の前に立つリシェルと、最前列で腕を組むレオンハルトを順番に捉えた。
「本日の審議に入る前に、私から提出すべき証拠がある」
大司教の言葉に、ゼノンが怪訝な顔をして眉をひそめた。
「大司教様、証拠とは何でしょうか。聖女の不適格を示す新たな――」
「違う」
オルドリックは、自らの机の下から、厳重な封が施された古びた羊皮紙の束と、療養係二人の立会記録を添えた抜粋を取り出し、高く掲げた。
「これは、禁書庫の最下層に封印されていた『建国誓約の原典』。そして、先代聖女アデルが、今回の審理での公開を認めた日記の一部である。許可を得たのは、儀式の手順に関する箇所に限る」
日記に加え、禁書庫で見つけた補遺のうち、制度の手順に関する部分も提出された。個人の療養記録は分け、公開を認められた箇所だけが綴じられている。
法廷全体が、静まり返った。
「なっ……! 大司教様、ご乱心ですか! そのようなものを法廷に持ち出すなど!」
ゼノンが血相を変えて立ち上がったが、オルドリックは冷徹な声でそれを制した。
「聖女リシェル。前へ」
「はい」
リシェルは証言台を進み出て、大司教から原典の束を受け取った。
「そこにある古文字を、この法廷の全員に聞こえるように朗読しなさい」
「承知いたしました」
リシェルは原典のページを開き、深呼吸をした。
霧境で受け継がれてきた古文字の知識。それが今、この国の狂った歴史を正すための刃となる。
「……『帝国の声の燃料たる誓灯は、民の自由なる同意の祈りによって満たされる』。これが、建国当初の誓約の形です。しかし、約百八十年前のページから、記述が意図的に書き換えられています」
リシェルの澄んだ声が、石造りの法廷に反響する。
「『戦時下において、祈りの集積は遅すぎる。よって皇帝と教会は、これより聖女の魂から強制的に拒絶の力、すなわち「否」を抽出し、それを直接の燃料とする儀式へ改める』。……さらに、ここにはその副作用についても明確に記されています。『魂の底から否を奪われた聖女は、声と自立の意志を著しく損ない、やがて衰弱死に至る』、と」
「やめろぉぉっ!!」
ゼノンの絶叫が法廷に響き渡った。
「でたらめだ! そのような古文書の翻訳など、聖女の都合の良い捏造に決まっている!」
「捏造ではありません」
オルドリック大司教が、悲痛な声でゼノンを遮った。
「この補遺と、日記の手順への記述は一致している。原典の改変時期については、教会の別の保管記録でも裏づけた。現代語への訳は私も確認した。ここに記されているのは、霧を止める儀式ではない!」
傍聴席から、悲鳴にも似たどよめきが沸き起こった。
「そんな……我々は、騙されていたのか……?」
「聖女は霧を止めていなかったというのか!」
議員たちが次々と立ち上がり、教会側へ非難の声を浴びせ始める。
リシェルは原典を閉じ、ゼノンを真っ直ぐに見据えた。
「典礼長。原典と先代聖女の証言により、奉献制度の正当性は完全に失われました。そもそも奉献が霧を防ぐものでない以上、第六十日に前倒しして私を生贄にする法的な前提は存在しません。奉献の停止とともに、その再審請求権も失効すると確認していただきたいのです」
「ふ、ふざけるな……!」
ゼノンは震える指で、最前列に座るレオンハルトを指差した。
「陛下! なぜ黙っておられるのですか! この小娘と大司教の妄言を認めれば、あなたの権力の源泉は『不当な搾取』であったと公認することになるのですよ! 歴代皇帝の正統性に、取り返しのつかない傷がつく!」
ゼノンの言葉は正しかった。
ここで教会の嘘を認めれば、皇帝の勅声は「神から与えられた絶対の権威」から「少女を拷問して得た呪われた力」へと地に堕ちる。
保身を考える為政者であれば、必ずここでリシェルたちを異端として切り捨てるはずだった。
だが、レオンハルトはゆっくりと立ち上がり、冷ややかな黒い瞳でゼノンを見下ろした。
「……私の王権は、もはやお前たちの欺瞞の上には成り立たない」
彼は迷うことなく、自らの正統性を傷つける道を選んだ。
「私は聖女の提示した原典を、帝国の真実の歴史として公式に承認する。制度の停止という判断が下れば、私は行政をその決定に従わせる」
審理を終え、三人の法官は奉献制度の停止を決定した。制度そのものが法的根拠を失うため、六十日目の再審請求権も失効する。
その確認が読み上げられ、レオンハルトが執行を引き受けた。
ゼノンは膝から崩れ落ち、傍聴席は怒号と歓喜、そして混乱の渦に飲み込まれた。
*
「大司教様! 説明を求めます!」
「陛下、今後の政務はどのように――!」
閉廷を告げる木槌の音が鳴った直後、法廷は暴動のような騒ぎになっていた。
議員たちが殺到する中、近衛兵たちが壁を作って要人の退路を確保する。
リシェルは喧騒を背に、素早い足取りで法廷の裏手にある薄暗い回廊へと抜け出した。
緊張の糸が切れ、壁に背を預けて深く息を吐き出す。
(勝った……終わったんだわ)
震える手を見つめていると、不意に、横の死角からぬっと黒い影が近づいてきた。
「……陛下」
レオンハルトだった。彼もまた、群がる議員たちを宰相に押し付け、人目を避けてこの回廊までやってきたのだ。
大聖堂の静かな死角。
遠くから法廷の騒ぎがくぐもって聞こえる中、二人は至近距離で見つめ合った。
勝利の歓喜を叫ぶことも、大げさな抱擁を交わすこともない。
レオンハルトは無言のまま、ゆっくりと右手を差し出した。
リシェルは微笑み、その大きく無骨な手の上に、自分の手を重ねた。
ぎゅっ、と。
互いの体温と、そこにある確かな鼓動を確かめるように、一度だけ強く握り合う。
リシェルは握った手を見て、やっと涙が出た。百日後の朝を、生きて迎えてもよいのだ。
「よくやった、エルナ」
低く掠れた声が、彼女の真名を甘く撫でる。
「陛下こそ。ご自分の権威に泥を塗ることになっても、私を支持してくださった」
「当然だ。あの呪われた炎を、これ以上燃やし続ける理由はない」
レオンハルトは名残惜しそうにリシェルの手を離し、回廊の奥――大聖堂の祭壇がある方向へと鋭い視線を向けた。
「奉献は停止した。だが、それは『誓灯』への燃料補給が二度と行われないことを意味する」
その言葉に、リシェルも表情を引き締めた。
勝利の余韻に浸っている時間はない。
皇帝の残された力は、大号令一回分と、少なくなっていく小命令の余裕だけ。
そして、北方の死湖からは、帝都を飲み込む真の『大霧』が刻一刻と迫っている。
「まず、明日も朝食を食べられますね」
リシェルが言うと、彼は張り詰めた顔を少し緩めた。
「何が食べたい」
「温かいパン。急がずに」
そう答えてから、二人はもう一度、灯を見た。翌朝の後にも、その次の朝にも、生きているための仕事が待っていた。




