↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/50

第25話 聖女は霧を止めていなかった

大聖堂の地下、祭儀法廷。


 傍聴席を埋め尽くした元老会議員や司祭たちの間には、かつてないほどの異様な熱気が渦巻いていた。


 本日は、奉献制度の停止を求める審理の日だった。前倒しの申立てはすでに棄却されているが、六十日目の再審請求権は残っている。それが来る前に、リシェルは制度そのものを問うことにした。


「静粛に」


 木槌の音が鳴り、法廷が静まり返る。


 三人の法官が並ぶ席の手前で、証人として出廷した大司教オルドリックが立ち上がった。その顔には、長年彼を縛り付けていた迷いや怯えはすっかり消え去り、悲壮なまでの覚悟が宿っている。


 オルドリックの視線が、証言台の前に立つリシェルと、最前列で腕を組むレオンハルトを順番に捉えた。


「本日の審議に入る前に、私から提出すべき証拠がある」


 大司教の言葉に、ゼノンが怪訝な顔をして眉をひそめた。


「大司教様、証拠とは何でしょうか。聖女の不適格を示す新たな――」


「違う」


 オルドリックは、自らの机の下から、厳重な封が施された古びた羊皮紙の束と、療養係二人の立会記録を添えた抜粋を取り出し、高く掲げた。


「これは、禁書庫の最下層に封印されていた『建国誓約の原典』。そして、先代聖女アデルが、今回の審理での公開を認めた日記の一部である。許可を得たのは、儀式の手順に関する箇所に限る」


 日記に加え、禁書庫で見つけた補遺のうち、制度の手順に関する部分も提出された。個人の療養記録は分け、公開を認められた箇所だけが綴じられている。


 法廷全体が、静まり返った。


「なっ……! 大司教様、ご乱心ですか! そのようなものを法廷に持ち出すなど!」


 ゼノンが血相を変えて立ち上がったが、オルドリックは冷徹な声でそれを制した。


「聖女リシェル。前へ」


「はい」


 リシェルは証言台を進み出て、大司教から原典の束を受け取った。


「そこにある古文字を、この法廷の全員に聞こえるように朗読しなさい」


「承知いたしました」


 リシェルは原典のページを開き、深呼吸をした。


 霧境で受け継がれてきた古文字の知識。それが今、この国の狂った歴史を正すための刃となる。


「……『帝国の声の燃料たる誓灯は、民の自由なる同意の祈りによって満たされる』。これが、建国当初の誓約の形です。しかし、約百八十年前のページから、記述が意図的に書き換えられています」


 リシェルの澄んだ声が、石造りの法廷に反響する。


「『戦時下において、祈りの集積は遅すぎる。よって皇帝と教会は、これより聖女の魂から強制的に拒絶の力、すなわち「否」を抽出し、それを直接の燃料とする儀式へ改める』。……さらに、ここにはその副作用についても明確に記されています。『魂の底から否を奪われた聖女は、声と自立の意志を著しく損ない、やがて衰弱死に至る』、と」


「やめろぉぉっ!!」


 ゼノンの絶叫が法廷に響き渡った。


「でたらめだ! そのような古文書の翻訳など、聖女の都合の良い捏造に決まっている!」


「捏造ではありません」


 オルドリック大司教が、悲痛な声でゼノンを遮った。


「この補遺と、日記の手順への記述は一致している。原典の改変時期については、教会の別の保管記録でも裏づけた。現代語への訳は私も確認した。ここに記されているのは、霧を止める儀式ではない!」


 傍聴席から、悲鳴にも似たどよめきが沸き起こった。


「そんな……我々は、騙されていたのか……?」


「聖女は霧を止めていなかったというのか!」


 議員たちが次々と立ち上がり、教会側へ非難の声を浴びせ始める。


 リシェルは原典を閉じ、ゼノンを真っ直ぐに見据えた。


「典礼長。原典と先代聖女の証言により、奉献制度の正当性は完全に失われました。そもそも奉献が霧を防ぐものでない以上、第六十日に前倒しして私を生贄にする法的な前提は存在しません。奉献の停止とともに、その再審請求権も失効すると確認していただきたいのです」


「ふ、ふざけるな……!」


 ゼノンは震える指で、最前列に座るレオンハルトを指差した。


「陛下! なぜ黙っておられるのですか! この小娘と大司教の妄言を認めれば、あなたの権力の源泉は『不当な搾取』であったと公認することになるのですよ! 歴代皇帝の正統性に、取り返しのつかない傷がつく!」


 ゼノンの言葉は正しかった。


 ここで教会の嘘を認めれば、皇帝の勅声は「神から与えられた絶対の権威」から「少女を拷問して得た呪われた力」へと地に堕ちる。


 保身を考える為政者であれば、必ずここでリシェルたちを異端として切り捨てるはずだった。


 だが、レオンハルトはゆっくりと立ち上がり、冷ややかな黒い瞳でゼノンを見下ろした。


「……私の王権は、もはやお前たちの欺瞞の上には成り立たない」


 彼は迷うことなく、自らの正統性を傷つける道を選んだ。


「私は聖女の提示した原典を、帝国の真実の歴史として公式に承認する。制度の停止という判断が下れば、私は行政をその決定に従わせる」


 審理を終え、三人の法官は奉献制度の停止を決定した。制度そのものが法的根拠を失うため、六十日目の再審請求権も失効する。


 その確認が読み上げられ、レオンハルトが執行を引き受けた。


 ゼノンは膝から崩れ落ち、傍聴席は怒号と歓喜、そして混乱の渦に飲み込まれた。


*


「大司教様! 説明を求めます!」


「陛下、今後の政務はどのように――!」


 閉廷を告げる木槌の音が鳴った直後、法廷は暴動のような騒ぎになっていた。


 議員たちが殺到する中、近衛兵たちが壁を作って要人の退路を確保する。


 リシェルは喧騒を背に、素早い足取りで法廷の裏手にある薄暗い回廊へと抜け出した。


 緊張の糸が切れ、壁に背を預けて深く息を吐き出す。


(勝った……終わったんだわ)


 震える手を見つめていると、不意に、横の死角からぬっと黒い影が近づいてきた。


「……陛下」


 レオンハルトだった。彼もまた、群がる議員たちを宰相に押し付け、人目を避けてこの回廊までやってきたのだ。


 大聖堂の静かな死角。


 遠くから法廷の騒ぎがくぐもって聞こえる中、二人は至近距離で見つめ合った。


 勝利の歓喜を叫ぶことも、大げさな抱擁を交わすこともない。


 レオンハルトは無言のまま、ゆっくりと右手を差し出した。


 リシェルは微笑み、その大きく無骨な手の上に、自分の手を重ねた。


 ぎゅっ、と。


 互いの体温と、そこにある確かな鼓動を確かめるように、一度だけ強く握り合う。


 リシェルは握った手を見て、やっと涙が出た。百日後の朝を、生きて迎えてもよいのだ。


「よくやった、エルナ」


 低く掠れた声が、彼女の真名を甘く撫でる。


「陛下こそ。ご自分の権威に泥を塗ることになっても、私を支持してくださった」


「当然だ。あの呪われた炎を、これ以上燃やし続ける理由はない」


 レオンハルトは名残惜しそうにリシェルの手を離し、回廊の奥――大聖堂の祭壇がある方向へと鋭い視線を向けた。


「奉献は停止した。だが、それは『誓灯』への燃料補給が二度と行われないことを意味する」


 その言葉に、リシェルも表情を引き締めた。


 勝利の余韻に浸っている時間はない。


 皇帝の残された力は、大号令一回分と、少なくなっていく小命令の余裕だけ。


 そして、北方の死湖からは、帝都を飲み込む真の『大霧』が刻一刻と迫っている。


「まず、明日も朝食を食べられますね」


 リシェルが言うと、彼は張り詰めた顔を少し緩めた。


「何が食べたい」


「温かいパン。急がずに」


 そう答えてから、二人はもう一度、灯を見た。翌朝の後にも、その次の朝にも、生きているための仕事が待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。