第24話 妹の日記は誰のものか
大聖堂の裏手にひっそりと佇む、大司教の私室。
分厚い絨毯の敷かれたその部屋は、ひどく重い静寂に包まれていた。
「……なんという、ことだ」
震える手で革表紙の小冊子を持ったまま、大司教オルドリックは力なく椅子に崩れ落ちた。
白髪交じりの威厳ある彼の顔は、今や見る影もなく蒼白に染まり、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
彼が手にしているのは、アデルが兄への開示を認めた日記の抜粋だった。原本は白百合の家で保管されている。
『私に求められているのは、国を思う祈りではない。ただの絶望と、世界に対する強い拒絶だ。ゼノン司祭は、私にすべてを憎めと指示をした』
そこには、奉献の儀式が神聖な自己犠牲などではなく、魂から『否』の力を搾取するための残酷な拷問であったことが克明に記されていた。
リシェルは、大司教のデスクの前に立ち、彼の苦痛に満ちた表情を静かに見つめていた。
この極秘の面会に、レオンハルトは同席していない。皇帝の威圧感で大司教を追い詰めることを避けるためであり、何より、この交渉のすべてをリシェルに委ねてくれたからだ。
「大司教様。それが、教会の隠してきた真実です」
「嘘だ……! アデルは、神と国のために尊い犠牲となったはずだ。彼女の祈りが、この十年、帝都を大霧から守ってきたのではないのか!」
オルドリックは日記を机に叩きつけ、慟哭のような声を上げた。
「これを公開すれば、妹の十年間の犠牲は……ただの無駄な苦痛だったことになる。何の意味もない、愚かな搾取の被害者だったと! そんな真実、兄として耐えられるものか!」
彼の悲痛な叫びは、保身からくるものではなかった。
妹の過酷な運命に『意味があった』と信じなければ、彼自身の精神が壊れてしまうからだ。だから彼は、心の底では教会の儀式に疑念を抱きながらも、その真実を封印し、目を背け続けてきた。
そこへ、ヴァレリウス大公の手の者たちが暗躍し始めているという情報が、イルザからもたらされている。大公は、この日記を教会解体のための決定的な武器として奪い取ろうとしている。
「この写しは、燃やす」
オルドリックは焦点の合わない目で暖炉の火を見つめ、日記に手を伸ばした。
「無かったことにするのだ。アデルは神聖な聖女として、美しく歴史に……」
「させません!」
リシェルは踏み込み、大司教の手から素早く日記を奪い取った。
「聖女様、それを返しなさい! それは教会と皇帝を破滅させる毒だ!」
「これは毒ではありません。アデル様自身の声です!」
リシェルは日記を胸に抱え、一歩も引かずに大司教を睨み据えた。
「十年前、教会の儀式によってアデル様の声と意志は奪われました。今、あなたはこの日記を燃やして、彼女の残した言葉をもう一度奪うおつもりですか。実の兄であっても、彼女が読んでほしいと託した言葉を、なかったことにはできません!」
「っ……」
オルドリックは弾かれたように息を呑み、力なく両手で顔を覆った。
「この先、公にするかどうかも、アデル様が決めることです。今日は、あなたに読んでもらうところまで。そのための許可をいただいています」
リシェルは抜粋を鞄へ戻した。
「妹の言葉を、どう受け止めればいいのだ」
「まず、会いに行ってください。お答えには時間がかかります。どうか、待ってください」
大司教は顔を覆っていた手を下ろした。
「私は……死んだと信じた方が、楽だった」
リシェルは返事をしなかった。慰める言葉を、自分が代わりに渡すことはできなかった。
退出の前、オルドリックは面会を取り次いでほしいと言った。リシェルは、アデルの希望を確かめた上で返事をすると答えた。
*
大司教との面会を終え、離宮の執務室に戻ってきた時、窓の外はすでに夕闇に包まれていた。
他人の人生の重すぎる決断に立ち会った疲労で、リシェルの足取りはひどく重かった。
「戻りました……」
分厚い扉を開けると、暖炉の火が赤々と燃える室内で、レオンハルトが窓辺に立っていた。
彼はリシェルの足音を聞きつけると、静かに振り返った。
だが、レオンハルトは彼女に近づくと、何も訊かなかった。
彼は机の上にあった銀のポットを手に取り、陶器のカップに温かい茶を注いだ。そして、それを無言でリシェルに差し出した。
「……陛下?」
「外は冷えただろう。少し座れ」
促されるままにソファに腰を下ろす。レオンハルトは隣には座らず、少し離れた椅子から彼女を見守るように腰掛けた。
「あの、大司教様との面会ですが」
リシェルが報告を始めようとすると、レオンハルトは片手を軽く上げてそれを制した。
「今はいい。今すぐ結論が出る話ではないだろう。まず茶を飲もう」
「でも、日記の公開については、まだアデル様のお返事を待っています。制度を止める審理までに、間に合わないかもしれません」
「構わん」
レオンハルトは低く、揺るぎない声で言い切った。
「その間に、ほかの記録を揃える。原典と観測簿はもうある。彼女の返事だけに、お前の命を負わせてはいけない」
彼は彼女の前に、一口大の焼き菓子を置いた。
「夕食まで持たない顔をしている」
「そんな顔ですか」
「私には、そう見える」
リシェルは差し出されたカップを両手で包み込んだ。茶の温かさと、彼の静かな信頼が、冷え切っていた心をゆっくりと溶かしていく。
二人の間には、言葉は必要なかった。
ただ、暖炉の薪が爆ぜる音と、仄かに香る茶の湯気だけが、張り詰めた戦いの中の穏やかな時間を作っていた。
*
同じ夜。大聖堂の大司教の私室。
オルドリックは、一人で机に向かっていた。机には禁書庫から正式に取り寄せた原典の写しがあり、妹の日記の言葉が頭から離れなかった。面会の希望書は、すでに白百合の家へ届けてある。
彼は震える手でペンを握りしめ、何かを書き殴っている。
彼の目にはもう、迷いや保身の色はなかった。あるのは、取り返しのつかない過ちを犯してきた教会への怒りと、真実と向き合う覚悟だけだ。
「アデル……許してくれとは言わん。だが、お前の言葉は、私が必ず届ける」
数日後には、奉献制度そのものの停止を求める審理が開かれる。
大司教オルドリックは、自らの名と地位のすべてを懸けて、百八十年間隠されてきた真実の扉をこじ開ける決意を固めていた。




