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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第23話 私から真名を渡す

レオンハルトの襟は、いつも一番上まで留まっている。


 その日は最後の留め具が外れていた。喉の傷へ薬を塗ったばかりだと聞いて、リシェルは机の脇に立った。


「触れてもいいですか」


 彼は書類から顔を上げた。指先の行く先に気づき、一度だけ喉を動かす。


「……ああ」


 皮膚は周囲より硬かった。そっと撫でると、彼の肩が強張った。


「痛みますか」


「いや。慣れていない」


 リシェルが手を引こうとすると、彼はその手を見た。止めはしない。引く前に、彼女の方がもう一度触れた。


「私の名前のことを、話したいんです」


 言ってから指を離す。


「リシェルは、普段使っている名です。洗礼で誓約簿に記された真名は、別にあります」


 レオンハルトの顔から、先ほどの戸惑いが消えた。


「それは、聞かなくてもいい」


「知りたくありませんか」


「知りたい。だが、私に渡す危険を、先に話さなければならない」


 彼は鍵のついた書類入れから、登録の手順書を出した。


 誓約簿へ登録されている者に、皇帝の命令が届く。今のリシェルは奉献の七日前に受けた除籍によって、そこから外れている。


 その仕組みは、すでに写本で確認した。


 手順書の末尾には、リシェルの知らない条文があった。


「緊急時の再登録……」


「皇帝と宰相の連署、登録用の誓印、正確な真名。三つが揃えば、本人の応答を待たずに簿へ戻せる。儀式の前に逃げた聖女を、連れ戻すためにも使われてきた」


「でも、奉献の時には除籍するのでしょう?」


「連行と準備を済ませてから、供出の前に外す。登録の手続きと、祭壇で力を奪う儀式は別のものだ」


 リシェルは文字を読み返した。


 自分が知らないうちに、身体へ届く命令の道が開かれる。それを正式な手続きとして許す条文が、ここにある。


「再登録されたら、私の『否』は?」


「止める鍵も、簿の命令系統の下に置かれる。自分への命令を、自分の鍵で切ることはできなくなる」


 レオンハルトは地方の写本の該当箇所も示した。


「糸を見る力は残る。他人から頼まれて切る力も。ただ、自分だけは止められない」


「話すことは?」


「奪えない。真名を知っても、心も言葉も縛れない。真名を指定すれば、行動への拘束は極めて強くなる。ただし、登録から外れた者には届かない。危ないのは、この登録を私が動かせることだ」


 リシェルはしばらく黙っていた。


「この条文、改める必要がありますね」


「ああ。お前に教えられるまでもなく、そうすべきだった」


 彼は書類を隠さずに机へ置いた。


「だから、話さなくてもいい。私を信じる証拠として差し出す必要はない」


「証拠ではありません」


 リシェルは、彼の顔を見た。


「あなたに呼んでほしいと思ったんです。母がつけてくれた名前を」


 彼の唇が少し開いた。


「聞くこと自体を嫌だとおっしゃるなら、言いません」


「嫌ではない」


 返事は小さかった。それから彼は、迷う時間を置いて、頷いた。


「……聞かせてほしい」


「エルナ」


 久しぶりに、自分でその名を言った。


「霧境では、夜明けの風をそう呼びます」


 窓の外で、夕刻の鐘が鳴った。彼はすぐには繰り返さなかった。音を覚えるように、彼女を見ている。


「私を登録するためには、使わないでください」


「使わない。お前を呼ぶためだけにする」


 リシェルは彼の手を取り、自分の腰へ添えた。椅子から立ち上がった彼との距離が縮まる。


「エルナ」


 耳に届いた声で、胸の奥がほどけた。


 母の呼び方とは違う。低くて、少し息が混ざる。その人のものになった自分の名前が、嬉しかった。


「もう一度」


 彼は少し笑い、今度はすぐに呼んでくれた。


 リシェルは背伸びをした。彼が身を屈めて、ようやく届く。自分から重ねた唇は、思ったより温かかった。


 離れた後も、彼の親指が腰の布を軽く押さえていた。


「こうして会いたい。仕事がない時にも」


 レオンハルトが言った。


「それは、お誘いですか」


「そうだ」


「はい。私も」


 彼が腕を少し緩めたので、リシェルは自分から、その胸へ頬を寄せた。


*


 翌日、リシェルはもう一度、白百合の家を訪れた。


 アデルへの問いは、療養係と一つずつ分けた。生きていることを皇帝へ伝えてよいか。儀式の記録を調べてよいか。日記のうち、手順への疑問が書かれたページを、兄へ見せてよいか。


 その日のうちに答えの出なかった問いは、次の訪問に持ち越した。


 何日か後、同じ意思が繰り返し確かめられた部分だけ、立会いの記録とともに写しが作られた。


 リシェルは許された内容を、レオンハルトへ伝えた。


「アデル様は生きておられます。声は出ませんが、答えてくださいます」


 彼は机へ手をついた。


「亡くなったと、叔父から聞いていた」


「あなたは、儀式に関わったのですね」


「ああ。私の行為についても、記録を集めている。人前で説明する時にも、お前へ先に渡す」


 彼はそれ以上、自分を許す言葉を求めなかった。


 日記の写しには、儀式の手順への疑問があった。


『祈るのではなく、拒めと言われた。拒んだものを奪うためなら、私の祈りはどこへ行くのだろう』


 リシェルはその一行で手を止めた。


 原本は白百合の家に戻してある。今ここにあるのは、読んでよいと託された言葉だけだった。


「これを、オルドリック大司教へ見せます」


 レオンハルトは頷き、面会のための紹介状を彼女の前へ置いた。


 その署名を書いた手を、リシェルは見ていた。

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