第22話 十年前の聖女は生きていた
帝都ルーメンの北西、小高い丘に建つ質素な石造りの修道院。
かつて生贄となった聖女たちの家族を支援するために作られたという『白百合の家』は、今はひっそりと静まり返っていた。
「……よく来てくださいました、聖女様」
裏口からリシェルを招き入れたのは、昨夜の舞踏会で接触してきた侍女、マリエラだった。
護衛のイルザを門外に待たせ、リシェルは薄暗い廊下を進む。
「ここに、十年前の先代聖女様がいらっしゃるというのは本当ですか? 奉献の儀式を終えた聖女は、すべて神の御許へ旅立つと教会は記録していますが」
「表向きは、そうです。ですが、真実は違います。……ご覧になってください」
マリエラが重い木製の扉を開けた。
日の光が差し込む清潔な小部屋。その中央に置かれたベッドに、一人の女性が横たわっていた。
三十代ほどの女性だった。枕に支えられた顔は細く、窓へ向いた目が、ゆっくりと来客へ移った。
「アデル様です」
マリエラが言った。
「儀式の後、声と意志を大きく損なわれました。十年間、こうして……」
傍らの療養係が、その言葉の先を引き取った。
「疲れている時は、お答えが難しくなります。でも、何も感じていないわけではありません」
療養係は白い札と青い札を見せた。白が承諾、青が拒否。質問の後に待ち、視線と指先の動きを確かめる。反応が曖昧なら、別の機会に同じことを尋ねるのだという。
「今日はお会いしてよいか、朝から二度、確かめました」
リシェルは寝台のそばへ座り、名乗った。返事はなかった。それでも立ち去ろうとすると、アデルの指が白い札へ少し動いた。
「もう少し、ここにいても?」
療養係がゆっくり質問を繰り返した。長い間の後、同じ動きが返ってきた。
リシェルは、膝の上の手を握った。
アデルの顔。その輪郭。
記憶が、大聖堂の祭壇での光景と結びつく。
(……間違いない。あの時、炎の中にいた……!)
以前、リシェルが『誓灯』の青白い炎の奥に見た、無数の苦痛に歪む顔。その中の一つが、目の前に横たわるアデルの顔と完全に一致していた。
奪われた力の痕が、あの炎に残っている。けれど、ここにいる人を炎の中の顔だけで理解したつもりにはなれなかった。
「ひどい……」
リシェルは両手で口元を覆った。
「ええ。ですが、この事実を公表すれば、教会の欺瞞は白日の下に晒されます。奉献を前倒ししようとする強硬派の口を塞ぎ、制度そのものを破壊することができる。さあ、聖女様。どうかアデル様を公の場へ引きずり出してください!」
マリエラの目は、改革というよりも、教会に対する復讐の炎で燃えていた。
確かに、今ここでアデルの生存を元老会に突きつければ、状況は一気にひっくり返るだろう。
だが。
「……できません」
リシェルは、首を横に振った。
「できない? なぜですか! あなた自身も生贄になるかもしれないのですよ!」
「本人の同意がないからです」
リシェルは静かに、だが確固たる意志で言った。
「何も答えられないと、決めないでください。まず、何を望んでおられるか確かめたい。人前に出ることと、言葉を公にすることも、別々に伺うべきです」
リシェルの言葉に、マリエラは愕然として言葉を失った。
「今日の面会だけで、すべてを承諾されたことにはできません。改めて、療養係の方と話をさせてください」
*
白百合の家を後にしたリシェルは、門前で待っていたイルザと合流した。
馬車へ向かおうとした時、不意に背後から声がかかった。
「おや、聖女殿ではないか。こんな寂れた修道院で奇遇だね」
振り返ると、そこにいたのは数人の護衛を連れたヴァレリウス大公だった。
温和な笑みを浮かべているが、その目は笑っていない。
「大公閣下。視察ですか?」
「そんなところだ。この『白百合の家』には、私の個人的な寄付も入っていてね。哀れな過去の遺物たちには、平穏な眠りが必要だ」
ヴァレリウスはリシェルに歩み寄り、声を潜めた。
「……過ぎた過去を掘り返せば、酷い火傷をする。聖女殿も、これ以上この施設には関わらない方が身のためだ。彼らの復讐心は、いずれ君自身も焼き尽くす」
ヴァレリウスは、アデルがここにいることを知った上で、十年間隠蔽してきたのだ。彼が偽勅の黒幕であるという確信が、リシェルの中でさらに強まった。
「ご忠告、感謝いたします。ですが、火傷を恐れていては霧は晴らせませんので」
リシェルは毅然と返し、馬車に乗り込んだ。
*
離宮の執務室に戻ったのは、夕暮れ時だった。
リシェルが部屋に入ると、レオンハルトは書類仕事の手を止め、彼女を静かに見つめた。
イルザを通じて、リシェルが『白百合の家』へ行っていたこと、そこでヴァレリウスと接触したことは、すでに彼の耳に入っているはずだった。
「戻りました」
「ああ」
レオンハルトはそれ以上、何も言わなかった。
彼なら『勅声』を使わずとも、皇帝としての威圧感で「そこで何を見た」「大公と何を話した」と問い詰めることができる。彼には、彼女の行動を把握し、危険を排除する責任があるからだ。
だが、彼はただペンを置き、リシェルが自ら口を開くのを待っていた。
「……訊かないのですか?」
「お前が話せないと言うのなら、私は詮索しない」
自分には待つことを求めた。その同じ時間を、今度は彼が引き受けていた。
「お前が自分から持ち帰り、私に話そうと思える時まで、私は待つ」
リシェルは胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼になら、話せる。アデルのこと、大公のこと、教会の闇の深さ。
ふと、リシェルの視線が、彼の軍服の少し開いた襟元――あの痛々しい喉の傷に止まった。
喉の傷を見ていると、触れたいと思った。
痛みを引き受けたいわけでも、罪を許したわけでもない。ただ、目の前にいるこの人に近づきたかった。
「アデル様のことは、話してよい範囲を確かめています。あなた自身のことも、いずれ聞きます」
「わかった」
リシェルは頷いた。
それとは別に、一つだけ伝えたいことがあった。生贄として記録された名ではなく、母が何度も呼んでくれた名前を、この声で聞いてみたかった。




