第21話 舞踏会の毒霧
皇宮の大広間は、シャンデリアの眩い光と、着飾った貴族たちのざわめきに満ちていた。
この夜会は、小霧の避難成功を労うと同時に、不穏な動きを見せる保守派を牽制するための政治的な場だった。リシェルは皇帝の監査役という異例の立場で、レオンハルトの斜め後ろに控えている。
前夜、禁書庫での初めての口づけ。
その甘い余韻がまだ唇に残っているような気がして、リシェルは時折、黒い礼装に身を包んだレオンハルトの広い背中を見ては、密かに視線を逸らしていた。
「聖女様。お時間、よろしいですか」
ふいに横から声をかけられ、リシェルは振り返った。
そこに立っていたのは、華やかな貴族たちの中にあってひどく浮いている、簡素な仕立ての服を着た青年だった。インクの染みついた指先。皇帝の命令の公開記録の印刷と、霧笛網の実務を担ってくれている下町の印刷工、トビアスだ。広場で観測記録を読み上げてくれた青年でもある。
「トビアスさん。どうしたのですか?」
「霧笛の配置図の件で、少し確認を。……それにしても、先日の北区での避難誘導は見事でした。俺たち下町の人間は、あの時、聖女様の指示があったから助かった。教会の言う天罰なんて誰も信じちゃいません。あなたの指示なら、俺たちはいつでも動きますよ」
トビアスははっきりとした声で、公衆の前でリシェルの『霧読み』としての能力を高く評価した。
彼は十年前の大号令で家族を失った遺族の一人だ。皇帝に対する敵意は今も消えていないが、リシェル個人の実務能力に対しては、強い信頼を寄せている。
「ありがとうございます。でも、あの避難は現場の皆さんの協力があってこそです」
「いや、聖女様の読みが正確だったからだ。次の配置ですが、運河沿いの……」
リシェルとトビアスが地図の束を広げ、真剣に実務の話を交わし始める。
その様子を、数歩離れた場所からレオンハルトが黙って見つめていた。
彼の黒い瞳は、氷のように硬く冷たい光を帯びていた。手に持ったグラスの縁をなぞる指先が、微かに白くなっている。
打合せが終わると、レオンハルトは空いたグラスを給仕へ返した。
「次の曲は、空いているか」
「踊りは得意ではありませんよ」
「私の足を踏んでも、記録には残さない」
リシェルは笑って、差し出された手を取った。腰に添えられた手の位置を、少し上へ直してもらう。礼装越しでも掌の温かさがわかった。
最初の回転で、裾が彼の靴に絡んだ。
「今のも?」
「書かない」
返事があまりに真面目で、彼女はまた笑った。彼も口元を緩める。その顔を見上げた時だった。
「……ん?」
リシェルの鼻腔を、異様な匂いがくすぐった。
埃と、焦げた土のような匂い。
次の瞬間、大広間の通気口から、濛々たる白い煙が滝のように噴き出してきた。
「火事だ!」「煙が!」
着飾った貴族たちが悲鳴を上げ、優雅だった大広間は一瞬にしてパニックに陥った。
だが、リシェルはその煙を吸い込んだ瞬間、血の気が引くのを感じた。
「ただの煙じゃありません! これは『塩沼草』です!」
リシェルは叫び、即座に手元の布で口と鼻を覆った。
「北方の塩沼地に生える毒草を燃やした煙です! 吸い込めば呼吸器を焼かれます! 皆、手持ちのハンカチで口を塞いで!」
パニックに陥った群衆は、一斉に出口である大扉へ殺到し始めた。だが、大扉のある廊下側からも煙が充満してきている。
レオンハルトがリシェルの傍に駆け寄った。
彼が一言『勅声』で「静まれ」と命じれば、群衆の足は止まる。だが、そうすれば彼らは煙の中で身動きが取れなくなり、十年前の地下道の悲劇の二の舞になる。
「陛下! 煙は西の通気口から来ています! そこを閉じて、東のテラスへの道を開けてください!」
リシェルはむせ返りながらも、的確な退路の指示を出した。
レオンハルトは命令を使う誘惑を断ち切り、彼女の知識に全幅の信頼を置いた。
「聞いたな! 近衛は西の通気口の蓋を閉じろ! 東側の扉を開放し、民を誘導しろ!」
皇帝の肉声による素早い指揮で、近衛兵たちが動き出す。
西側の蓋が閉まり、煙の流入が弱まった。近衛が東の扉を押さえ、庭までの通路に人を並べる。
「どいてくれ!」
我先にと東のテラスへ逃げようとする貴族の波に押され、リシェルの身体が大きく弾き飛ばされた。
「リシェル!」
レオンハルトの声が遠ざかる。
白い毒霧が視界を完全に奪い、方向感覚すら狂わせる。咳き込む人々の間で、リシェルは必死に倒れないよう踏みとどまった。
(どこ……陛下はどこ?)
煙の中で目を凝らし、彼を探す。
その時、白い煙を切り裂くようにして、黒い軍服の影が真っ直ぐにリシェルへ向かってきた。
彼は迷うことなく群衆を掻き分け、リシェルの腕を強く掴んだ。
「……ここにいる」
低く掠れた声。レオンハルトだった。
彼はリシェルを探し当てると、掴んだ腕を滑らせて彼女の手をしっかりと握りしめた。手袋越しではない、直接の熱。
「離れるな」
命令ではない、切迫した懇願のような響き。
リシェルもまた、彼の手を強く握り返した。煙の中で、互いの存在だけが唯一の確かな道標だった。
*
数十分後。
東の庭園に避難した貴族たちは、咳き込みながらも一命を取り留めていた。
咳の止まらない者は、療養室へ運ばれた。全員の無事を確認するまで、夜会の楽団も運搬を手伝った。
「……出火元は通気口の奥でした。燃え残りの灰を調べたところ、やはり聖女様のご指摘通り、有毒な塩沼草の束です」
顔を煤で汚したイルザが、レオンハルトとリシェルに報告する。
「こんなものを、誰が皇宮に持ち込んだのだ」
「それが……この束を縛っていた麻紐に、教会の備品を示す印がありました。教会の倉庫から持ち出されたものである可能性が高いです」
教会の倉庫。
あのゼノン典礼長が、皇帝の権威を失墜させ、聖女の責任を追及するために仕組んだ自作自演のテロか。
「聖女様」
ふいに、庭園の暗がりから小声で呼ばれた。
リシェルが振り返ると、そこにいたのは宮廷の侍女の服を着た、見知らぬ女だった。年齢は三十代半ば、ひどく思い詰めたような顔をしている。
「あなたは?」
「……私はマリエラ。旧聖女支援組織『白百合の家』の者です」
女は周囲を警戒しながら、リシェルの手に小さな折り畳まれた紙片を押し付けた。
「教会に騙されてはいけません。彼らは十年前に何をしたか……あの地下に、誰を隠しているか。真実を知りたければ、これを見てください」
女はそれだけ言うと、暗がりの中へ逃げるように消えていった。
リシェルは手の中の紙片を開いた。
そこには、たった一言だけが記されていた。
『十年前の聖女アデルは、まだ生きている』




