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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第20話 禁書庫と、初めての口づけ

大聖堂の最下層。重厚な鉄格子と幾重もの鍵で守られた『禁書庫』は、何十年も人の立ち入りを拒んできたような古い紙と埃の匂いに満ちていた。


「周囲の警備は近衛で固めている。教会の者には一切近づかせるな」


 レオンハルトの指示にイルザが頷き、扉の外で待機する。


 魔石ランプの灯りだけを頼りに、リシェルとレオンハルトは広大な書庫の奥へと進んだ。高い書架が迷路のように入り組む中、一番奥の壁際に、皇帝の印と大司教の印の両方がなければ開かない特別な保管箱が鎮座していた。


 大司教オルドリックから預かった鍵と、レオンハルトの持つ鍵。


 二つの鍵が同時に回され、重い蓋が開く。


 中に収められていたのは、建国当初の記録が記された分厚い羊皮紙の束だった。


「これが、大聖堂の地下に隠されてきた建国誓約の原本……」


 レオンハルトが慎重に最上段の文書を取り出し、ランプの光に当てた。


 だが、彼の眉間にすぐに深いシワが刻まれる。


「読めないな。今の帝都で使われている文字とは体系が違う。一部の神官にしか解読できない暗号のようなものだ」


「見せてください」


 リシェルは彼の手元を覗き込み、はっと息を呑んだ。


 そこに並んでいたのは、祭壇の縁に刻まれていたものと同じ、そして霧境の生活技術の中に残る『古文字』だった。


「私なら、読めます」


「写本と同じ系統か?」


「はい。故郷の霧守の長から、代々受け継がれてきた文字です」


 リシェルは文書を机に広げ、指先で掠れた文字をなぞりながら、ゆっくりと音読し始めた。


「……『第一の誓い。我ら、この過酷な大地を生き抜くため、自らの意志において帝冠に力を預ける』。……『第二の誓い。皇帝は民の同意をもってのみ、その声を力とする』」


 読み進めるうち、リシェルの声に震えが混じり始めた。


 そこに記されていたのは、おぞましい生贄の記録などではなかった。


「陛下。……誓灯は、元々は『否』の力で燃えていたのではありません」


 リシェルは顔を上げ、信じられないものを見るような目でレオンハルトを見つめた。


「建国の時、民衆が自らの自由意志で捧げた『同意の誓い』。その前向きな祈りの集積こそが、誓灯の本来の燃料だったんです」


「……同意の誓いだと?」


「はい。毎年、参加を選び直す形です。ただ、これが今の奉献へ変わった経緯は、別の記録を調べなければ」


 リシェルは不確かな文字に印をつけた。地方の写本と照らす必要がある。


 その先には、改誓の条件が並んでいた。元老会の全定数の三分の二、教会の証言、そして双鍵。皇帝だけでも、聖女だけでも、誓約は書き換えられない。


「元老会は六十席。空席や欠席があっても、四十の賛成が要る」


 レオンハルトが言った。


「まず、これを皆が読める言葉にしましょう」


 リシェルは新しい紙を出した。生贄を必要としなかった時代の約束が、そこへ少しずつ形を現した。


 自分が受け継いできた血塗られた力の真実。それを暴いたのは、彼自身ではなく、目の前にいる一人の少女の知識だった。


「……お前の手柄だ、リシェル」


 レオンハルトは彼女に向き直り、はっきりと告げた。


「この解読結果は、皇帝の威光によるものではなく、聖女リシェルとの『共同発見』として公式な文書に残す。明日、直ちに元老会へ提出しよう」


「ベルタ母さんと、写本を残した人たちの名も」


「わかった。お前が書いてくれ」


 彼は発見者の欄を空けて、紙を返した。


「……ありがとうございます」


 リシェルは胸の奥が熱くなるのを感じた。


「少し、休もう」


 長時間の解読と、避難室での閉じ込めの疲労がピークに達していた。レオンハルトが壁際の長椅子を指し示し、二人は並んで腰を下ろした。


 ランプの灯りが、静かな空間を柔らかく照らしている。


 避難室での、あのキス寸前の緊張感が、不意に二人の間に蘇ってきた。


 まだ聞けていないことはある。それでも今、リシェルは彼の隣を離れたくなかった。


 レオンハルトの手が、長椅子の上で動いた。彼女の指に触れる前に止まる。


「リシェル。口づけたい」


 声が近い。字を読む時とも、議場で話す時とも違う、彼女だけに届く大きさだった。


 リシェルは自分から、その手に指を重ねた。


「……はい」


 リシェルは微かに唇を開き、自分から目を閉じた。


 次の瞬間、重なるようにして彼の唇が触れた。


 ひどく優しく、確かめるような口づけだった。


 レオンハルトの手がリシェルの背中に回り、彼女の身体を壊れ物を扱うようにそっと引き寄せる。リシェルもまた、彼の軍服の胸元を両手で強く掴み、その温もりに応えた。


 古い書庫の冷気の中、互いの熱だけが鮮明に感じられる。


 息を吸おうとして少し離れると、彼も離れた。その額が触れる近さで、リシェルは小さく笑った。こんな時、彼も息を乱すのだと知った。


 離れた後も、彼の親指は彼女の手の甲に添えられていた。リシェルはその指を、そっと握り返した。


 レオンハルトの目元がひどく優しく緩み、リシェルもまた、恥ずかしさに頬を赤く染めながら微笑み返した。


 机へ戻ろうとしても、手が離しづらかった。先に力を緩めたのは、リシェルだった。


「……ん?」


 視線を外したリシェルが、解読し終えた文書の束のさらに下、保管箱の底に、まだ数枚の羊皮紙が残っていることに気づいた。


「陛下。まだ、書類が……」


 リシェルがそれを手に取ろうとすると、羊皮紙は厳重な蝋引きの紐で封印されていた。


 そして、その表紙には、古文字ではなく、現代の文字ではっきりと一つの名前が記されている。


『奉献手順補遺――閲覧記録・アデル』


 先代聖女、アデルの名。


 封には療養記録を含むとの注意があり、本人の許可、または権限ある法官の開示判断を要すると記されていた。レオンハルトはその名前を見て、手を止めた。


 さっきまでの優しい熱は消え失せ、彼の黒い瞳に、底知れぬ恐怖と後悔の色がどろりと渦巻くのを、リシェルは見逃さなかった。

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