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生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


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第19話 避難室の一夜

ひんやりとした地下の空気が、分厚い石壁の間に澱んでいる。


 分厚い扉に外の物音を隔てられた避難室には、壁に据え付けられた魔石ランプの淡い光と、二人の微かな呼吸の音だけが落ちていた。


「内側の解錠桿が動かない。先ほどの点検では動いた。外から何かを噛ませたらしい」


 レオンハルトは鋼鉄の扉から手を離し、低く息を吐いた。


「誰が、こんなことを……」


「わからない。避難訓練の混乱に乗じて、私とお前を物理的に排除したかったのか、それとも別の目的があるのか」


 レオンハルトは備え付けの硬い長椅子に腰を下ろした。


 訓練中とはいえ、皇帝と聖女が同時に行方不明になれば、すぐに近衛隊が捜索を始めるだろう。命の危険が迫っているわけではない。だが、救出まで数時間はかかるかもしれない。


 リシェルもまた、少し距離を置いて長椅子の端に座った。


 議事堂での激しい政治闘争も、偽勅の脅威も、この分厚い扉の向こう側だ。今この空間には、一人の男と一人の女しか存在しない。


 地下の冷気が、薄着のリシェルの肩を震わせた。


 それに気づいたレオンハルトが、黒い外套を差し出した。リシェルは礼を言って自分で肩に掛け、隣の空いた場所を見た。


「あ、ありがとうございます……陛下は寒くありませんか」


「私は平気だ」


 彼はそう言うと、窮屈そうに首を振り、軍服の硬い立ち襟のホックを指で弾いて少しだけ緩めた。


 その瞬間、リシェルは息を呑んだ。


 彼の喉元。


 バルコニーから群衆を見下ろした時に微かに見えた、あの痛々しい傷跡が、今は至近距離で露わになっていた。


 刃物で切られたというより、内側から肉が裂け、無理やり縫い合わせたような歪な痕。


「……ひどい、傷ですね」


 無断で触れないという約定があるため、リシェルは手を伸ばす代わりに、言葉でそっとそれに触れた。


 レオンハルトは襟元に手をやり、自嘲するように目を伏せた。


「皇帝の『勅声』は、過去の聖女の命を燃やして放つものだ。その呪われた力を人間の喉が通せば、代償として声帯と肉体が焼かれる。……これは、その罰だ」


 彼は隠そうともせず、自らの罪の痕を彼女の前に晒した。


「十年前、霧が帝都へ流れ込んだ日。私は東門の地下道へ民を誘導するため、大号令を使った。だが、想定外に風向きが変わり、霧が地下道へと流れ込んだ」


 レオンハルトの声が、狭い空間に重く沈む。


「私の声は『そこから動くな』と民の足を縛っていた。彼らは霧に焼かれながらも、私の命令のせいで逃げることすらできず……二百人が死んだ。この傷は、その時に喉が裂けた痕だ。皇帝の力のせいで、私は民を殺した」


 リシェルは自分の膝をきゅっと握りしめ、真っ直ぐに彼を見つめた。


「……陛下。では、もう一つ教えてください」


 リシェルは、ずっと聞けなかった核心に踏み込む決意をした。


「十年前の奉献についても、あなたは何か知っていますか。先代のアデル様は、本当に亡くなられたのですか」


 彼は喉元へ手をやった。


「関わりがある。だが、本人の記録も確かめずに、その人の事情を話すことはできない」


「あなた自身のことなら?」


「私のしたことを、相手の秘密にして逃れるつもりはない。ただ今は……少し待ってほしい」


 痛みのためか、最後の声が掠れて途切れた。


「では、記録を調べた後に。答えられるところと、まだ答えられないところを分けて聞かせてください」


 リシェルは白湯を差し出した。


「待ちます。でも、忘れたことにはしません」


 レオンハルトが、弾かれたように目を開けた。


 信じられないものを見るような視線。


「……私を、疑わないのか。私が大公と同じように、お前を利用する腹黒い為政者かもしれないと、どうして疑わない」


「疑問はあります。だから、記録も自分で読みます」


 リシェルが微かに微笑むと、レオンハルトは小さく息を吐き出した。


「お前は……本当に」


 彼が身を乗り出し、リシェルとの距離が一気に縮まった。


 掛けられた外套から香る、彼特有の微かな香木と冷たい冬の匂い。互いの体温が肌越しに伝わるほどの近さ。


 彼は外套のずれた端を指した。リシェルが頷くと、肩の布を直してくれる。近づいた指には、机仕事でできた小さな傷があった。


 彼の熱を帯びた吐息が、リシェルの前髪を揺らした。


「戻ってきた時、袖をつかんでくれただろう。……嬉しかった」


 顔を近づけていなければ、聞き逃したかもしれない。もう一度聞きたくて、リシェルは動けなかった。


 彼の視線が、リシェルの瞳から、ゆっくりとその唇へと落ちた。


(あ……)


 リシェルは目を逸らすことができなかった。


 心臓が警鐘のように高鳴り、呼吸が浅くなる。彼が何をしようとしているのか、その切迫した瞳の熱が雄弁に物語っていた。


 レオンハルトの顔が近づく。


 あと少しで唇が触れ合う。リシェルが彼の袖へもう一度指を添えた、その瞬間。


 ガツンッ!!


 凄まじい金属音が、二人の間の甘い緊張を粉々に打ち砕いた。


「陛下! 聖女様! ご無事ですか!」


 扉の下に隙間が開き、ようやくイルザの声が届いた。同時に、太い閂が外される重い音が続いた。


 レオンハルトはピクリと動きを止め、手を引いた。


 彼は深く、ひどく残念そうな息を吐き出すと、ゆっくりとリシェルから身体を離した。


「……助けが来たようだな」


「……はい」


 リシェルもまた、火照る頬を隠すように俯き、小さく頷いた。


 あと一秒遅ければ、間違いなく彼に触れられていた。その余韻が、狭い密室の空気にまだ色濃く残っている。


 ギギギ、と重い音を立てて鋼鉄の扉が開かれた。


 松明の明かりと共に、青ざめたイルザと数人の近衛兵が雪崩れ込んでくる。


「申し訳ありません! 訓練の混乱を突き、何者かが外から閂を下ろしたようです。すぐに犯人を捜索しております!」


「よい。私と聖女に怪我はない」


 レオンハルトは立ち上がり、すっかり皇帝の冷たい顔に戻っていた。


 イルザはほっと胸を撫で下ろし、それから思い出したように手元の書状を差し出した。


「陛下。それから、先ほど大司教様より使いが参りました」


 イルザの言葉に、レオンハルトの目が鋭く光る。


「大聖堂の『禁書庫』の封印を、開く手筈が整ったとのことです」


 禁書庫。


 帝国の歴史の暗部であり、歴代の聖女たちの真実が眠る場所。


 リシェルは立ち上がり、レオンハルトと視線を交わした。


 リシェルは外套を返そうとして、手を止めた。レオンハルトが「着ていろ」と言い、先に廊下へ出た。


 彼を追いながら、まだ触れていない唇を意識した。今夜、聞かなければならないことがある。胸の速さがおさまるのを待っている時間はなかった。

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