第18話 皇帝の命令に私の署名が要る
元老会の円形議事堂は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
「もう一度申し上げる。これより、霧対策および避難に関するすべての勅令は、聖女リシェル・ロウの『連署』を必須とする。彼女の署名なき命令は、発効しないものとする」
低く、しかし議場全体に響き渡る声。
議員たちは信じられないものを見るように、皇帝と、その斜め後ろに立つリシェルを交互に見比べた。
「へ、陛下! 正気でいらっしゃいますか!」
真っ先に声を荒げたのは、保守派の重鎮だった。
「たかが生贄の小娘に、皇帝の勅令を差し止める権限を与えるなど! それは皇帝の絶対権力を二分するに等しい暴挙です!」
「権力を二分するのではない。『双鍵』として本来の形に戻すだけだ」
レオンハルトは手元の書類――リシェルが霧境から持ち帰った、初代聖女の写本の写しを掲げた。
「建国当初、皇帝の『命じる力』と聖女の『止める力』は対等であった。彼女の霧読みとしての正確な知識は、先日の小霧の際にも証明されている。私一人の独断で誤った命令を下し、十年前の悲劇を繰り返すよりはるかに合理的だ」
「し、しかし……!」
「お待ちください」
紛糾する議場に、リシェルは一歩前へ進み出て、通る声を響かせた。
議員たちの軽蔑と反発の視線が突き刺さるが、彼女はひるまなかった。
「元老会の皆様が、私という一介の娘に権限が渡ることを危惧されるのは理解できます。ですから、私はこの連署権を受けるにあたり、明確な条件を定めます」
リシェルは議場を見回し、はっきりと宣言した。
「私が連署した命令は、いかなる緊急時であっても、その内容、目的、結果をすべて『公開記録』とします。密室で皇帝の力を乱用することは決してさせません。私の署名があっても、判断を誤ることはあります。だから記録を公開し、誤りを指摘してもらいます。連署した命令の責任は、私も負います」
リシェルの言葉に、宰相ハインリヒが深く息を吐き出した。
「……自ら責任の所在を明らかにし、逃げ道を塞ぐとおっしゃるか。そこまで覚悟がおありなら、私から申し上げることはありません」
宰相が矛を収めたことで、議場の反発は急速に熱を失っていった。
ヴァレリウス大公は沈黙を守り、ただ静かに微かな笑みを口元に張り付けたまま、二人を見つめていた。
*
議会を終え、離宮の執務室に戻ると、リシェルは小さく息を吐いて肩の力を抜いた。
「……心臓が止まるかと思いました」
「堂々としたものだったぞ。歴戦の議員どもが、お前の一言で沈黙した」
レオンハルトはかすかに目を細め、執務机へと向かった。
机の上には、すでに一枚の真新しい羊皮紙が用意されていた。
新制度下における、最初の勅令書。
「これは?」
「本日の午後実施する、皇宮内の避難訓練の指示書だ。大霧が到達した際、この皇宮に残る文官や使用人たちを、高所から給気できる密閉式の地下避難室へ誘導するための手順を定めたものだ」
レオンハルトは二本の羽ペンをインク壺に浸し、その一本をリシェルに差し出した。
「お前の署名が要る。読んで、問題がなければサインを」
「……はい」
リシェルはペンを受け取り、机の前に立った。
羊皮紙には、レオンハルトの力強い筆跡で避難経路と物資の配置が記されている。低地へ開いた地下道とは違い、この部屋には塔の上まで伸びる給気管がある。リシェルが指摘した逆流時の閉鎖手順も記されていた。これは魔法の書面命令ではなく、担当者へ配る訓練計画だった。
リシェルが羊皮紙の右下にペン先を向けた時、レオンハルトもまた、左下の署名欄にペンを構えた。
二人は、広いマホガニーの机に並んで立っていた。
互いの肩が触れ合いそうなほどの近さ。レオンハルトの規則正しい呼吸の音が、リシェルの耳に届く。
「……行くぞ」
レオンハルトの低い声。
「はい」
二人は同時に、羊皮紙へ最初の一筆を置いた。
カリッ、と。
二つのペン先が羊皮紙を擦る音が、静かな執務室で完全に重なり合う。
流れるようなレオンハルトの署名と、少し硬いがはっきりとしたリシェルの署名。二つの名が、一枚の勅令書の上に並んで刻まれた。
書き終えてペンを離した瞬間、リシェルの胸の奥に、言葉にできない熱いものが込み上げてきた。
書き終えた名前の最後に、インクが一滴余った。
「急ぎすぎた」
リシェルが吸い取り紙を探すと、彼が先に差し出した。
「私に合わせなくていい」
「合わせたつもりはありません」
言い返したのに、頬が熱かった。次に署名する時は、自分の速さで書こう。それでも隣には、この人がいればいいと思った。
ふと視線を上げると、レオンハルトもまた、並んだ二つの署名を見つめていた。
彼の黒い瞳がゆっくりとリシェルに向けられる。
「……悪くない」
低く掠れた声には、深い満足感が滲んでいた。
「ええ。とても」
リシェルも微笑みを返し、二人の間に、張り詰めた政治闘争の中での束の間の、静かで温かい空気が流れた。
*
その日の午後。
連署した勅令に基づき、皇宮内での避難訓練が開始された。
合図の鐘が鳴り響き、文官や使用人たちが灰布の覆面を手にして、指定された経路へ足早に移動していく。
「誘導はスムーズですね。パニックも起きていません」
「ああ。だが、実際の霧が来れば恐怖で足が鈍る。地下避難室の設備も、最終確認をしておこう」
レオンハルトはリシェルを伴い、皇宮の東塔の地下深くにある巨大な避難室へと向かった。
分厚い石造りの壁と、何重にもロックがかかる鋼鉄の扉。内部には数日分の備蓄と、手動の換気装置が備えられている。
二人が避難室の内部に入り、換気口の建て付けを確認していた時だった。
ガコンッ!!
突如として、背後から凄まじい金属音が響いた。
「っ!?」
リシェルが振り返った瞬間、開け放たれていたはずの鋼鉄の扉が、凄まじい勢いで閉まっていくところだった。
「陛下!」
レオンハルトが咄嗟に駆け寄り、扉の隙間に腕をねじ込もうとしたが、間に合わなかった。
バァァァンッ!!
重い轟音と共に扉が完全に閉ざされ、同時に、外側から太い閂が下ろされる不吉な音が響いた。
「開けろ! 何事だ!」
レオンハルトが鋼鉄の扉を強く叩き、低い声で叫ぶ。
だが、分厚い扉の向こうからは何の返答もない。
ただ、冷たい地下の静寂だけが、二人の周囲を取り囲んでいる。
「閉じ込められ……た?」
リシェルは青ざめた顔で、窓一つない避難室の壁を見回した。
事故か、それとも罠か。
いずれにせよ、二人は皇宮の地下深く、外部と完全に遮断された密室に、たった二人きりで取り残されてしまったのだ。




