↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/50

第17話 母の写本

ランプの灯りが揺れる砦の小部屋で、リシェルは息を詰めてその古いページをめくっていた。


 表紙の擦り切れた革装丁。中には、帝都の大聖堂の祭壇に刻まれていたものと同じ、古い誓約文字がびっしりと書き込まれている。


「霧境の生活技術の中に、なぜ帝都の古い言葉が混ざっているのか、ずっと不思議だったんだ」


 傍らに立つ養母のベルタが、静かに語る。


「だが、代々霧守の長にだけ受け継がれてきたこの写本には、この地がかつて『建国誓約の地方代行地』であったと記されている。初代聖女が、この北の果てで誓約の儀式を代行していたのさ」


 リシェルは指先で古文字をなぞりながら、頭の中で現代の言葉へと翻訳していく。


「……見つけました。ここに、皇帝の命令に対する記述があります」


 リシェルが指差した一文に、ベルタも身を乗り出した。


『命じる声は、止める声と対になりて真の誓約となる。止める側の目には、縛る力が糸として映るべし』


「命令の糸が見える目……」


 リシェルは呟いた。イルザや料理人の背中に見えた灰色の糸。あれは幻覚でも異常でもなく、『止める側』の権限を持つ者――真の聖女の資質としての視覚だったのだ。


 さらにページを進めると、かすれた文字で一行だけ、こう記されていた。


『悲痛なる叫びに応え、他者の縛りを自らの声で断ち切った』


「代理の否……過去にも、他人の命令を解除した聖女がいたんですね」


 リシェルは安堵の息を吐いた。自分のやっていることは異端の魔法などではなく、建国当初から聖女に与えられていた正当な力だった。


「リシェル」


 ベルタが、ごつごつとした温かい手で、リシェルの肩を包み込んだ。


「お前は、十二年前の霧で母親を助けられなかったことを、村長の『待て』という指示に従った自分の弱さのせいだと思い詰めてきたね」


「……はい」


「あの時、お前は七つだった。風を読み違えたのも、逃げ道を確保できなかったのも、大人の責任だよ」


 ベルタは写本を閉じず、リシェルの手が震えるのを包み込んだ。


「頼ってよかったんだ。これからも、頼っていい。相手が間違ったら言い返して、それでも怖ければ手を借りな」


 リシェルは頷こうとして、うまくできなかった。俯くと、涙が開いたページへ落ちそうになり、ベルタが布を差し出した。


 泣きやむまで、写本の続きは待ってくれた。


「この知識を、帝都へ持ち帰ります。皇帝陛下の力を縛り、生贄の制度を終わらせるための証拠として」


 翌日には、火を消した谷の視界が戻った。燃やされた塩沼草は袋の織り目まで記録して、証拠として持ち帰ることになった。誰が運び込んだのかは、まだわからない。


 敵の陰謀の影を感じながらも、村の安全を確保したリシェルは、イルザたちと共に馬を飛ばして帝都への帰路についた。


*


 数日後。


 雨に濡れた皇宮の裏門をくぐり、リシェルはついに離宮へと帰り着いた。


「聖女様、ご無事で何よりです!」


 出迎えた文官たちの声の中を抜け、リシェルは泥の跳ねた旅装のまま、真っ直ぐにレオンハルトの執務室へと向かった。


 重い扉が開き、執務室に足を踏み入れる。


 机に向かっていたレオンハルトが、弾かれたように顔を上げた。


「……リシェル」


 その声を聞いた瞬間、リシェルの張り詰めていた気が緩んだ。


 無事に帰ってこられた。彼が守り抜いてくれたこの場所に。


 リシェルは小走りで机に近づくと、報告の言葉よりも先に、思わず手を伸ばし、彼の軍服の袖をきゅっと掴んでしまった。


「戻り、ました」


 息を切らしながら見上げると、レオンハルトは目を見開いていた。


 無断で触れてしまった。そう気づいて手を離そうとしたが、レオンハルトは彼女が持ち帰ったはずの成果や村の状況について問うことはしなかった。


 彼はただ、真っ直ぐにリシェルの全身――雨に濡れた髪から、泥のついたブーツまでを素早く視線で確かめ、そこに目立った怪我がないことを確認すると、深く安堵の息を吐き出した。


「よく、無事に戻った」


 低く掠れた声には、皇帝としての威厳よりも、一人の男としての切実な喜びが滲んでいた。


 彼は掴まれた袖を引くこともなく、ただリシェルの温もりを確かめるように、そのままの距離で立ち尽くしていた。


「陛下。留守の間、お手数をおかけしました」


 少しの間の後、リシェルは自ら手を離し、姿勢を正した。


 彼女は革袋から、ベルタから託された古びた写本を取り出し、机の上に置いた。


「村を孤立させた手口はわかりました。それとは別に、持ち帰ったものがあります。これを見てください」


 レオンハルトが写本のページに視線を落とす。


「これは、古い誓約文字か」


「はい。この写本に、私の力の根拠が記されていました」


 リシェルは真っ直ぐにレオンハルトの黒い瞳を見つめ返した。


「名が簿から外れれば、命令が届かない。それだけなら、ほかの人にも起こります。でも私は祭壇の古字に『否』を返して、止める側の力を呼び起こした。糸を見て、他人の依頼で切れるのは、そのためです」


 彼女は二つの文字を示した。


「皇帝の命じる力と、聖女の止める力。この二つを、写本は『双鍵』と呼んでいます」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。