第16話 故郷の霧と、帰る道
「ロウ村が、霧に……?」
リシェルは手にした地図を握り、イルザの言葉をもう一度反芻した。
季節外れの霧。通常、死湖から発生する有毒な黒霧は、風向きと地熱の周期に沿って広がる。この時期にロウ村を包囲するほどの大規模な霧が発生するなど、今季の観測からは予測していなかった事態だった。
「村の被害状況は! 風向きはどうなっていますか!」
「早馬の報告によれば、村人は灰布の覆面と霧笛を用いて水門付近の砦に避難しているとのこと。しかし、霧の滞留が長引けば、備蓄と体力が尽きるのは時間の問題です」
イルザの報告に、リシェルの血の気が引いていく。
ロウ村の大人たちは霧への対処を熟知している。養母であり霧守の長であるベルタが指示を出している限り、簡単には全滅しないだろう。だが、予測不能な事態が長引けば、限界が来る。
「……行きます」
リシェルは拳を握りしめ、振り返ってレオンハルトを見た。
「私が村へ戻り、現場で霧を読みます。帝都で遠くから無事を祈っているなんて、私にはできない」
レオンハルトは、彼女の強い眼差しを正面から受け止めた。
彼の黒い瞳の奥で、微かな葛藤が揺れるのをリシェルは見た。彼は何か言いかけ、まだ地図を握っている彼女の手を見た。
だが、彼は決して『勅声』を使わなかった。いや、普通の声ですら「行くな」とは言わなかった。
「……イルザ」
レオンハルトは短く近衛隊長の名を呼んだ。
「北の関所までの行程を最短で駆け抜けられる軍馬を五頭、そして長距離の騎乗に耐えられる護衛の精鋭を直ちに選抜しろ。お前も同行し、聖女の命を死守せよ」
「はっ!」
旅の手配をするため、三人は離宮へ戻った。
「それから、これを」
執務室で、レオンハルトは机の引き出しから、勅書の認証印ではなく、私的な印章で封じられた分厚い封筒を取り出し、リシェルに手渡した。
「道中の関所と、北方の駐屯軍に救援を要請するための勅許状だ。兵の配置は現地指揮官と相談しろ。物資の支出は私が承認する」
リシェルはその手紙の重みを受け取った。
そこに記されているのは、彼女を縛る命令ではない。彼女が故郷を救うという目的を果たすための、最大の武器だった。
「陛下……」
「お前が選んだ道だ。私は、それを止めない」
レオンハルトは低く掠れた声で告げた。
離れていても、彼女の選択を完全に尊重する。それが、彼が彼女に与えられる最も深く、誠実な庇護の形だった。
*
数時間後。
冷たい雨が降りしきる皇宮の裏門で、リシェルは旅装に身を包み、用意された軍馬の横に立っていた。
馬に乗る技術は、霧境で育った頃に身につけている。馬車を使うよりもずっと早く村へ辿り着けるはずだった。
「準備は整いました。いつでも出発できます」
イルザの声に頷き、リシェルは手綱を握る。
見送りに来ていたレオンハルトが、無言のまま一歩近づいてきた。
雨に濡れるのも構わず、彼は黒い外套を翻してリシェルの前に立つ。
「手紙の中には、北方の軍の司令官へ向けた指示書も同封してある」
レオンハルトは視線を伏せ、不器用な手つきでリシェルの乗る馬の鞍の金具を確かめた。
「手紙の中身は、すべて『要請』と『許可』だ。お前を縛る命令形は、一言も使っていない。……お前が帝都へ戻る時期も、お前自身が決めろ」
「はい」
リシェルは真っ直ぐに彼を見た。
「必ず、村を救ってみせます。そして……」
戻ってきます、と続けようとしたリシェルの言葉を、レオンハルトが遮った。
「いやぁ、おっかないこった」
聞き覚えのある、ひどく場違いな言葉。
それは、毒騒ぎの際、リシェルが安堵のあまり無意識にこぼしてしまったロウ村の短い訛り言葉だった。
帝都の洗練された言葉しか知らないはずの完璧な皇帝が、ひどく真面目な、硬い表情のまま、不器用にその田舎言葉を口にしたのだ。
「……え?」
リシェルは一瞬ぽかんとし、次の瞬間。
「ふ、ふふっ……」
張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、堪えきれない笑みがこぼれた。
「陛下、それは……使い方が少し違いますよ」
「そうか。怖いと思った時の言葉だと、聞いたのだが」
「……それなら、合っています。でも見送りで言います?」
リシェルは笑いながら、小さく息を吐き出した。
彼なりの、精一杯の送り出し方だったのだ。皇帝としての威厳も何もない、ただ彼女を安心させたいというだけの、不器用な言葉。
「行ってきます、レオンハルト様」
リシェルは初めて、彼の肩書きを外して名で呼んだ。
レオンハルトは小さく目を見張り、それから、満足げに微かに口角を上げた。
「ああ。道中、気をつけて行け」
*
駅ごとに馬を替え、夜には休みを取りながら、三日をかけて北上した。
リシェルとイルザたちの一行は、視界を遮るほどの濃い霧に沈む北方の塩沼地帯――ロウ村の境界へと辿り着いた。
「聖女様、ここから先は馬では危険です。霧の濃度が高すぎる」
イルザの報告を受け、リシェルは灰布の覆面を口元にきつく縛り直した。
「水路に沿って歩きます。風向きからして、村人たちは北西の古い砦に集まっているはずです」
霧読みの感覚を研ぎ澄まし、有毒な濃霧の隙間を縫うように進む。
やがて、霧の向こうに石造りの砦の輪郭が浮かび上がり、周囲を警戒して鳴らされる低く規則的な霧笛の音が聞こえてきた。
「誰だ! そこを動くな!」
灰布を被った村の自警団が、槍を構えて霧の中から現れる。
「私です。リシェルです!」
覆面をずらし、顔を見せると、自警団の男たちは信じられないものを見るように目を見開いた。
「リシェル……!? 馬鹿な、生贄の聖女様がどうしてこんな所に!」
砦の中に案内されると、石壁に囲まれた広間には、疲労困憊した村人たちが肩を寄せ合って休んでいた。
みな、季節外れの霧に怯え、先の見えない不安に押し潰されそうになっていた。だが、帝都から駆けつけたリシェルの姿を見た瞬間、彼らの顔に小さな希望の光が灯る。
「リシェル!」
人垣を掻き分けて進み出てきたのは、白髪交じりの髪を後ろで束ねた初老の女性だった。
リシェルの養母であり、霧守の長であるベルタ。
「母さん!」
リシェルが駆け寄ると、ベルタは力強く彼女を抱きしめた。
「よく生きて……よく自分の足で戻ってきたね、リシェル」
ベルタの腕の力強さに、リシェルは涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
「村の状況は」
「備蓄はあと五日は持つ。だが、風が抜けたはずなのに、谷の南側だけ煙が濃い」
ベルタは地図を広げた。リシェルは到着までにつけた風向きの印を、その上へ重ねた。
「霧に、何か混ざっています。南の排水溝を閉じてください。北側の見張りには、煙が薄くなった時刻を記録してもらって」
イルザが村人の案内で調査に出た。その間にリシェルは、砦の高所へ通じる給気口を確かめ、目の痛みを訴える人を奥の部屋へ移した。
夕方、調査隊が湿った草の燃えかすを持ち帰った。谷の数か所で、誰かが煙を補い続けていた跡がある。
火を消し、流入口を塞ぐと、見張りから視界が戻り始めたという報せが届いた。薬師が負傷者を診る間、リシェルはようやく腰を下ろした。
「リシェル。お前がここへ戻ってきたということは、帝都で何かとんでもない秘密に触れたんだろう?」
ベルタが真剣な顔つきになり、声を潜めた。
「ええ。皇帝の力は、過去の聖女から奪われた『否』の力でした」
「……やはりね」
ベルタは深く息を吐き出すと、リシェルの手を取って砦の奥の小部屋へと促した。
「お前に、見せなければならないものがある」
小さなランプの明かりの下、ベルタは厳重に布で包まれた古びた一冊の書物を取り出した。
表紙の革はボロボロに擦り切れ、ページは変色している。だが、そこから放たれる存在感に、リシェルは息を呑んだ。
「これは……」
「私たちの先祖、霧境の人間が代々隠し守ってきたものさ」
ベルタは古い写本の表紙を、そっと撫でた。
「帝都の祭壇を造った、初代聖女の文字が残る写本。……建国誓約の、本当の形が記されている」




